和骨董大辞典

  • TOP
  • 和骨董大辞典

伝統工芸品 山形鋳物

 

山形県山形市周辺で生産されている工芸品です。

現在では日用雑器から美術品まで様々な分野の作品を制作しており、昭和50年には伝統工芸品に認定されました。

 

 

 

山形鋳物の歴史

 

山形鋳物の始まりは、平安時代の後期まで遡ります。約900年前、安倍貞任・宗任の乱の鎮定のため源頼義が山形を転戦した際、同行していた鋳物師が山形の土質の良さに気付いたのがきっかけで、山形での鋳物作りは始まりました。

現在の山形市内にある馬見ヶ崎川とその周辺の土質が、鋳物を制作する際の型作りに適していることを発見した鋳物師たちは、一部がそのまま山形の地に留まり、鋳物の制作に取り掛かりました。

 

江戸時代に入るとその技術と生産は本格的に発展していきます。まず、山形藩藩主最上義光が商工業発展のため馬見ヶ崎川沿いに銅町や鍛治町をつくったことで、鋳物職人たちの技術が継承されるための環境が整えられました。また、銅町で培われた技術は、出羽三山の参拝客たちが土産物として山形鋳物の仏具など日用品を持ち帰ったことで、全国的に広まっていきます。

さらに江戸時代中ごろから明治時代に入る頃には、新たな技法の導入によって、燈籠や梵鐘などの大型の作品を制作することが可能になったと共に、茶の湯釜など工芸品の製造も行うまでとなりました。

 

その後、明治時代には日露戦争で使用された砲弾の制作に従事し、大正時代には機械の部品製造、そして昭和後期に入ると山形市に山形鋳物工業団地がつくられ、機械鋳物と工芸品製造を行う鋳物産地が誕生しました。

 

 

 

山形鋳物と南部鉄器のちがい

 

国産の鉄器として名高い南部鉄器と山形鋳物ですが、どちらも工芸品であり、そして鋳物であるため溶かした金属を型に流し込んで作るという工程にも違いはありません。強いて言うなら、異なるのはデザインと産地でしょう。茶道好きの藩主によって岩手県で生産され始めた南部鉄器と、源頼義配下の鋳物師によって山形県で生産され始めた山形鋳物。前者は装飾性が高く、古典的な模様だけでなく花の彫刻や動物をかたどった形、さらにはピンクや青などカラフルなデザインのものも作られています。一方、山形鋳物は伝統的な形を大きくは変更せず、端正なつくりを活かすシンプルなデザインの物が多く見られます。無駄のない、どんな場面にも使えるような風合いです。

 

どちらも鉄製のもので丈夫ではありますが、長く使う為にも使用後には水分を十分に乾かしてから仕舞うことをお勧めします。

 

 

 

買取に関するお問い合わせ

ご相談やご質問など、まずはフリーダイヤルでお気軽にお電話くださいませ。
  • お電話でのお問い合わせはこちら tel:0120-424-030
  • メールでのお問い合わせ