新潟県で製造される工芸品です。鎚起銅器とは銅の、伸展性に優れた特性を活かし、その字の通り銅版を金槌で打ち起こしながら継ぎ目のない形を作っていくものです。一枚の金属板を皿・筒・袋状に徐々に変形させ、1つの作品を完成させるためには、作業の間に銅を熱して柔らかくする「焼き鈍し」の作業や、彫金による装飾などを施す作業も必要となり、高度な技術を要します。中でも燕鎚起銅器は数万回の打ち込みを行う為、作品の外側は陶器のような滑らかさと光沢を放つのが特徴の一つとされています。
燕鎚起銅器の歴史
燕鎚起銅器の始まりは、江戸時代初期まで遡ります。17世紀の始め、それまで農業が盛んだった燕市の農民が信濃川の氾濫に困窮し、副業として和釘の製造を始めたのがきっかけでした。
その後江戸で起こった大火事による建物の再建の為、和釘の需要が増えたこと等により、燕市の産業の割合は農業よりも和釘の製造の方が大きくなり、この副業は農民たちを救っただけでなく、市を支えるまでとなっていきます。
江戸時代中頃になると、仙台からやってきた職人が鎚起銅器の製造法を伝えたこと、また燕市を統治していた村上藩の指示によって、地元で採れた高品質な銅を使った銅細工の製造が開始されました。当初はやかんや鍋の制作が行われていましたが、明治時代に入るとその高い技術が注目されます。
また日本の工芸技術の発達と交流によって、鎚起銅器に彫金の装飾技術も織り交ぜられるようになったことで、鎚起銅器はそれまでの「日用品」としてでなく、「美術品」としての地位も確立したのです。
その後は明治6年のウィーン万博への出品や、同じく27年には明治天皇の御成婚25周年に作品が献上されるなどして、燕鎚起銅器の名が広まっていきました。昭和56年には伝統工芸品としても認定され、現在でも燕市の代表的な産業の1つとして、その技術は受け継がれています。