明治時代後半に生まれ、昭和初期まで活躍した洋画家です。写実的な描写を理想とし、人物像や風景画を多く描きました。
佐分眞の歴史
佐分眞は1898年に愛知県で町長の息子として生まれました。その後17歳で上京して東京の中学校に転校すると、画家を志して川端画学校の夜間部で絵画を学び始めます。こうして翌年には東京美術学校の西洋画科に入学を果たし、当時の日本画壇を代表する画家・藤島武二に絵を教わりました。20代半ばの頃には同校を卒業し、2年後には早くも帝展への出品作品が初入選となっています。また翌年には白日会の展覧会で白日賞を受賞して会員となり、続けて光風会賞も受賞するなど、年々その知名度を高めていきました。
やがて1927年からの5年の間に、佐分眞は2度のフランス留学を果たしています。この滞在期間中には現地の日本人画家、藤田嗣治や久米正雄らと親交を深めたほか、スペインやイタリアなどを巡り、バロック期の画家であるディエゴ・ベラスケスやレンブラント・ファン・レイン、スペインのロマン主義の画家であるフランシスコ・デ・ゴヤの作品を研究しています。
30代前半で一時帰国した際には、第11回帝展に出品した作品『貧しきキヤフエ』が特選となり、留学の成果を披露することとなっています。1932年には再び渡欧しますが、翌年には帰国し、35歳の時に宝塚劇場の美術部に入社して壁画制作などを担当。やがて美術部長となりました。
また、個人の芸術活動も行っており、1935年には個展の開催、また多くの雑誌に随筆を掲載するなどしています。一方で方針の違いから同年は第二部会に参加せず、また光風会、白日会も脱退しました。そして翌年、39歳の若さで息を引き取っています。
フランシスコ・デ・ゴヤ
18世紀中ごろから19世紀前半にかけて活躍した画家です。スペインで代表的な画家の1人でもあり、スペイン国王に仕える宮廷画家として名を馳せましたが、版画や彫刻作品も残されています。
1746年に鍍金師の家に生まれたゴヤは、幼少期から絵に興味を持ち、地元の画家に絵画を学んでいました。やがて24歳になると画家を志してイタリアへ向かい、ルネサンス期の作品とフレスコ画を学びます。翌年スペインに帰国すると、その腕を買われ大聖堂の装飾などの仕事を任されるようになり、30代からの約十数年は王立のタペストリー工場で下絵の作画を担当しました。
そして1786年、ゴヤが40歳の時、彼は国王付きの画家となっています。宮廷画家となってからは、病によって聴覚を失いながらも、『巨人』、『カルロス4世の家族』などの代表作を次々生み出し続けました。
晩年はフランスとの戦争の中で、スペイン郊外やフランス・ボルドーなど居場所を転々とし、フランスに亡命後に宮廷画家を辞職したと言われています。その後1828年、82歳の時にボルドーにて息を引き取りました。