明治末期に生まれ、平成後半にかけて活躍した彫刻家です。
女性像を得意とし、木やブロンズの彫刻作品を多く残しました。
佐藤忠良の歴史
1912年に宮城県の教師の家庭に生まれた佐藤忠良は、幼少期は同県で過ごしますが、6歳になる時に父が亡くなり、その後は母の故郷である北海道で進学しています。そして札幌の中学校を卒業後、20歳の時に画家になることを目指して上京し、川端画学校に通い始めました。佐藤忠良は東京に移った当初、北海道の母校を同じくする後輩で、のちに小説家となる船山馨と同じ下宿に住み、画学校に通っていたと言われています。そして約2年後の1934年、東京美術学校の彫刻科に入学。在学中には上級生の柳原義達に勧められたことがきっかけとなり、1937年の国画会に初出品し、初入選、および奨学賞を獲得しました。また翌年にも文展に出品した作品が初入選を受賞するなど、学生時代からその才能を発揮し、1939年、27歳で同校を卒業しています。
卒業後は同級生の山内杜夫や舟越保武、本郷新などと共に新制作派協会の彫刻部の設立に携わり、創立後は会員となって同展に作品を発表していきます。この出品は第二次世界大戦の混乱中を除いて、以後97歳まで毎年続けました。戦時中は1944年に召集を受けてからソ連や朝鮮に派遣されたのち、3年間シベリアに収容され、作品制作を再開できたのは、1948年、36歳からだったと言われています。以降は引き続き新制作展への出品を続け、40歳の時に出品した『群馬の人』は秀作美術展への出品作に選ばれ、のちに国立近代美術館におさめられることとなりました。40代後半には絵本の出版にも携わり、『大きなかぶ』の挿絵などを代表として、原画制作を60代の頃まで続けています。この間にはそれまでに制作した日本人の顔がテーマとなった作品群が高村光太郎賞を受賞したほか、東京御造形大学の主任教授も務め、後進の指導にも尽力しました。また、ヨーロッパ各地に訪れ、1974年には東京で作品展を開催。新制作協会展の出品作への評価もあって、同年と翌年の内に、毎日美術賞、芸術選奨文部大臣賞、中原悌二郎賞などの賞を次々と受賞しています。
1980年代からは、69歳の時にパリのロダン美術館で行った素描と彫刻の作品展を皮切りに、日本国内でも東北地方を中心として各所で作品展を開催しました。彫刻家としての名が広まっていくと、78歳の時には宮城県美術館に記念館が開かれたほか、彫刻と文化振興の功績を認められ、河北文化賞を受賞。さらに80代の頃には宮城県の大和町ふれあい文化創造センター内にギャラリーの創設、滋賀県の佐川美術館に佐藤忠良記念こどもアトリエが設立されています。
そして2011年、98歳で息を引き取りました。