和骨董大辞典

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児島善三郎(こじまぜんざぶろう)

明治時代半ばから昭和後期にかけて洋画家として活躍しました。独立美術協会の創立メンバーの1人で、後年は日本風な表現とフォービスムを織り交ぜた独特な画風を確立しています。

 

 

 

児島善三郎の歴史

 

福岡県の紙問屋に長男として生まれた児島は、10代半ばの頃に通っていた中学校で絵画同好会を創立します。この頃から雑誌などを購入して西洋美術を学びはじめ、油彩画の制作も始めていきました。その後薬学の専門学校に進学していますが、画家になることを諦められず20歳の時に上京。翌年から本郷洋画研究所にて絵を学び始めますが東京美術学校の受験は不合格となり、以降は独学で絵を学んでいきます。22歳の頃からは結核にかかり一時期は療養生活を送りましたが、1920年には復活して東京に戻りました。

再び上京してからは制作活動も積極的に行い、28歳の時に出品した『早春の下板橋付近』が初入選、また翌年には同展で二科賞を得るなど連続して賞を受賞しています。さらに萬鉄五郎が結成した美術団体『円鳥会』にも参加し、展覧会へ作品を出品するなどしました。

 

やがて32歳からは約3年間フランスへ渡り、伝統的な西洋絵画、そして画家のアンドレ・ドランからはフォービスム的表現を学んでいます。また児島はこの間にも二科展への出品を続け、ヨーロッパに滞在中に描いた作品を出品するなどし、1928年には二科会の会友にも選ばれました。その後30代後半まで二科会には参加し、会員にも薦められますが間もなく児島は退会。以降は里見勝蔵や三岸好太郎、高畠達四郎らと共に独立美術協会を設立し同展覧会に出品を続けていきます。これらの活動により日本でも少しずつフランスのフォービスム的な表現が受け入れられるようになると、児島自身も広くその名を知られるようになり、各美術展への出品や、新文展、また新興日本美術展の審査員なども務めるようになりました。

 

晩年は結核の再発なども経験しますが、銀座で絵画と彫刻含めた作品の個展なども行い、69歳で息を引き取っています。

 

 

 

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