児島虎次郎(こじまとらじろう)
明治時代前半から昭和初期にかけて活躍した洋画家です。ヨーロッパや中国へ訪れ作画の腕を磨いたほか、印象派の画家として代表的なモネや彫刻家のロダンの作品を収集していた画家としても有名です。
児島虎次郎の歴史
1881年、岡山県で旅館を営む家の次男として生まれました。児島虎次郎がわずか4歳の時、その旅館に画家の松原三五郎が客として訪れ、虎次郎の絵を目にしていち早く才能を見抜きましたが、この時は祖母の大反対にあったと言われています。その後も変わらず絵画への興味は収まらず、学校卒業後も家業の手伝いを終えたあとに絵と英語の勉強を続けました。この間、同郷出身で東京に絵を学びに行っていた洋画家の長尾杢太郎や井上啓次らは、まだ10代半ばであった児島虎次郎を応援し、帰郷するたびに都会の画壇の状況やその作品の指導をしました。
20歳になった時、児島は念願の上京、そして東京美術学校への入学を果たします。西洋画科に入った児島にとっての教師陣には黒田精輝や藤島武二など優秀な画家たちが集っており、日本の画壇でも最先端をゆく技術と知識を学んでいくこととなります。1学年の時には倉敷の大原家の奨学生として認められ、支援を受けながら、大原家の大原孫三郎との友情を深めていきました。
その後その勤勉な性格もあり、4年間の修了課程を飛び級して2年で卒業。同校の研究科を経て、26歳の時に勧業博覧会美術展に出品した『なさけの庭』は1等を受賞した上に、さらに宮内省の買い上げになるという栄誉を受けています。児島は翌年からフランスへ留学し、しばらくパリの郊外で画家仲間と過ごすと、ベルギーにあるゲント美術アカデミーに入学しました。同校でもデッサンや油彩を中心に熱心に勉学に励み、3年間の修了課程を首席で卒業しています。
帰国後は故郷である岡山で結婚し、新居には大原孫三郎により、別邸をもらい受けました。以降はここを制作活動の拠点として、農村風景や日常の一コマをテーマとした作品を描いています。そのほか、一時は中国や朝鮮を訪れ自身の画風を再度見直し、1919年には大原孫三郎からの願いもあって、日本でも皆が西洋画を目にできるようという使命をもって再びヨーロッパへ向かいました。この滞在時には現在日本でも有名なモネやエル・グレゴ、ロダンなどの作品を収集し、帰国時にはエジプトにも立ち寄ったと言われています。やがて、その児島虎次郎の世界各国の美術と自身の技術への深い探求心は高く評価され、明治神宮奉賛会より天皇を称える壁画作品の制作を依頼されました。しかしながら、この制作に並々ならぬ努力を費やした児島は、絵画収集と並行して行う周辺調査や作品制作に倒れ、作品も未完成のまま亡くなっています。
作品はその後、児島虎次郎の友人で画家の吉田苞(よしだしげる)によって完成され、児島が収集した西洋画たちは、倉敷市に創設された大原美術館にて、日本で初めて展示する西洋美術品として、話題をあつめました。