明治末期に生まれ、昭和末期まで活躍した洋画家です。前衛絵画に影響されながらも油彩画で使用するペインティング・ナイフを使った独自の画風を確立しました。
刑部人の歴史
1906年、刑部人は栃木県の裕福な家庭に生まれています。その後小学校に進学して以降は、父が小学校の校長を務めていたこともあり、低学年の頃から非常に優秀な成績をとっていました。卒業まで常に一位の成績を取り続けたと言われていますが、この在学中には美術にも強い関心を持ち、水彩画の模写をしたり、画家の鶴田吾郎や川端龍子が主催したスケッチクラブの通信講座の冊子を購読し独学でスケッチや水彩画を学んでいます。
5年生になった時に父の転勤の都合で上京すると、刑部人は東京の小学校を卒業後、中学校に進学しました。ここではのちに小説家となる高見順などと親交を深めたほか、川端龍子のもとを訪ね、しばらくすると川端画学校にてデッサンをはじめとした本格的な絵画の勉強を始めています。そして中学校を卒業後は東京美術学校の西洋画科に入学し、洋画家の和田英作の教室で熱心に励み、特待生にも選ばれました。卒業の前年には帝展に出品した『友人の肖像』が初入選となり、在学中からその才能を示したほか、翌年に次席の成績で卒業しています。
その後も帝展に出品を続けながら研究科に通いますが、同科は1年ほどで退学し、25歳の結婚を機に都内に新築したアトリエに移り、1940年からは東京高等工芸学校の助教授として教壇に立ちました。やがて新文展においては無鑑査となったほか、文部省の戦時特別文展に招待出品されるなど、30代後半には画家としての刑部人の名が広まっていきます。
以降も1946年、1948年に日展に出品した『冬の軽井沢』や『渓流』が特選を受賞したほか、1951年には日本橋三越での初めての個展の開催を成功させ、晩年までのほぼ毎年、30回近くに渡って継続出品しました。並行して、1958年に参加した新世紀美術協会の展覧会にも、晩年まで出品を続けています。
50代後半の頃からは体調を崩しながらも制作活動はやめず、日展の審査員や会員など要職も歴任したほか、画集の出版なども行い、1978年、71歳で息を引き取りました。同年、勲4等瑞宝章を受章しています。