和骨董大辞典

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前田寛治(まえたかんじ)

 

明治時代後半から昭和初期にかけて活躍した画家です。ヨーロッパでは印象派からキュビスム、フォーヴィスムに至るまで幅広い画家たちの作品を研究しました。

 

 

前田寛治の歴史

 

 

鳥取県の農家に生まれた前田寛治は、中学で洋画家の中井金三にデッサンを学んだことから美術に興味を持ち、中学卒業後、18歳で画家を志して上京しています。上京前には中井に約1年間教わったほか、上京後は白馬会の洋画研究所でも絵を学び、20歳で東京美術学校西洋画科への入学を果たしました。

在学中には藤島武二などに師事し、日本芸術院会員となった鈴木千久馬や、のちに日本に広くピカソを知らしめた洋画家・伊原宇三郎などの同級生らと学んでいます。また、前田は休暇の際には積極的に故郷に戻り、恩師である中井金三が発足した文化団体の砂丘社で活動しました。ここでは地元の田園風景や子供たちを描いた絵画作品を制作、また作品展へ発表したほか、詩も制作しています。

 

その後25歳の時には東京美術学校を卒業すると同時に研究生となり、同年、帝展に出品した作品が初入選。また翌年に平和記念東京博覧会でも出品作品が褒状を受け、前田は国内の画壇でその名を広めることとなりました。

 

そして1922年からはフランスへ渡り、パリのアカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールにて学び始めます。ここでは19世紀に活躍した写実主義のフランス人画家、ギュスターヴ・クールベについて研究し、そのほか印象派のゴッホや、フォーヴィスムのモーリス・ド・ヴラマンク、キュビスムの作品などにも着目して、ヨーロッパで最新の画法の研究に勤しみました。また、現地では中学の同級生でもあり、社会主義思想家となっていた福本和夫とも交流し、影響を受けています。フランス滞在最後の年となった29歳の時には、『ブルターニュの女』をはじめとした作品を制作し、日本に帰国。帰国後すぐに帝展にて特選を受賞するなど、日本でも留学で得た画法を活かしていきました。

 

翌年にはパリで知り合った画家仲間たちと一九三〇年協会という美術団体を設立し、積極的な制作活動で日本の西洋画壇に少なからず影響を及ぼしています。以降は主に同団体の展覧会と帝展を中心に作品の発表を続け、そのほか自身のアトリエも兼ねた「前田写実研究所」を開設して後進の指導と自身の写実主義作品の研究に没頭しました。その後も帝展で受賞を重ね、30代前半の頃にはついに帝展の審査員にも選ばれましたが、まもなくして病により息を引き取っています。

 

 

 

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