昭和初期に生まれ、平成中頃にかけて活躍した日本画家、または版画家です。
日本画以外に水墨画も描いています。
加山又造の歴史
1927年、京都に生まれた加山又造は、父が西陣織の図案家、そして祖父が絵師であるなど幼い頃から芸術、特に日本画やその造形などを身近に感じながら育ちました。その後、京都市立美術工芸学校の絵画科に入学すると、卒業後は上京して東京美術学校の日本画科に進学しています。
在学中は学徒動員によって学業を中断することとなっていますが、復学後、1949年に無事卒業すると、日本画家の山本丘人に絵の指導を受け、山本らが創立した創造美術会に作品を出品していきました。当初は落選もしますが、23歳の時に出品した作品で初入選を果たすと同時に、研究会賞を受賞。翌年、同会が新制作派協会と行動を共にすることとなると、同時期にフランスのラスコー洞窟から影響を受けた作品『原始時代』を新制作展で発表し、新作家賞を受賞しています。これを機に会友となった加山又造は、制作活動も積極的に行っていき、以降1953年から毎年同展に作品を出品し、29歳の時には会員となりました。
この頃から加山又造は、日本画の中にシュールレアリスムや未来派的な表現など、ヨーロッパ美術の作風を織り交ぜた作品を制作するようになり日本画壇で注目を集めていきます。制作活動に打ち込み、1958年にはグッゲンハイム賞国際美術展に芸術家仲間たちと作品を出品して団体賞を獲得。また30代半ば頃からは大画面を利用した作品の制作を始めます。その後40代の頃には伝統的な大和絵の技法などを駆使した作風を確立し、数々の作品を作品展に出品。1973年には日本芸術大賞を受賞し、翌年、創画会で会員となると、以降は“現代の琳派”と言われその名を広めていきました。
また、水墨画や陶板画の制作も行った一方で、寺院の天井画や飛行機などの内装、車のデザインなども手掛けています。40代の頃から60代後半にかけては多摩美術大学や東京芸術大学で教壇に立ち、後進の指導にも力を入れました。晩年は文化功労者に続き、2003年、76歳の時に文化勲章を受賞し、翌年息を引き取っています。
川端実(かわばたみのる)
加山又造とグッゲンハイム賞国際美術展に出品し、団体賞を獲得した際の芸術家の1人です。1911年に生まれ、東京美術学校の油画科に入学しました。戦時中にフランス、イタリア、アメリカなどに渡り、帰国後は多摩大学の教壇に立ち、並行して制作活動も続けていきます。40代後半には拠点をニューヨークに移して活動を始め、各展覧会で賞を受賞したほか、鮮やかな色彩表現を用いた抽象画を多く描きました。国内外での個展の開催も行い、2001年、90歳でこの世を去っています。