和骨董大辞典

  • TOP
  • 和骨董大辞典

古賀春江(こがはるえ)

 

1890年代中頃から1930年代前半にかけて活躍した洋画家です。本名は古賀亀雄といい、国内でもシュルレアリスムの初期の画家として知られています。

 

 

 

古賀春江の歴史

 

 

古賀春江は福岡県にある浄土宗の寺院・善福寺に第一男として生まれました。体が弱く、外出も嫌っていたため、幼少期から読書や絵に親しんでいたと言われています。小学校卒業後、15歳で中学に入学すると、洋画家の松田実から絵を学び始め、2年後、周囲の反対を押し切って中学を退学し、本格的に洋画を学ぶために上京しました。上京後は太平洋画会研究所に通ったのち、1913年からは日本水彩画研究会で洋画家でもある石井柏亭に絵を習っています。

 

翌年、東京での同居人が自殺し、精神的に不安定になった古賀春江は父によって故郷に戻され、僧籍に入りました。この時名前を「良昌」と改名したほか呼び名に「春江」を用いています。その後、20歳の時に再度上京すると宗教大学で聴講生となり、並行して制作活動も行いました。同年、2度目の上京前に久留米市で出会った女性・岡好江と結婚しています。

1917年には太平洋画会展に出品した水彩画が入選しますが、秋頃に体調を崩してしまい、助膜炎や急性肺炎のせいで大学を退学。以降は生活も難しく、仕送りと妻の働きに頼るようになりました。しかし制作活動は続け、油彩画を中心としながらも、水彩画展などにも作品を出品し、20代中頃に二科展で初入選を果たしています。

 

その後は自身の子供の死産に影響され描いた作品『埋葬』で二科賞を受賞したほか、サロン・ドートンヌの日本部出品作品にも選出されるなどして名を広めました。また、同じ頃には二科出身であった画家仲間たちと共に「アクション」という前衛絵画の美術団体を結成したり、フランスのキュビスムの画家・アンドレ・ロートに影響を受けた作品を制作しています。

 

 

30代になると東京に移っていますが、母を亡くしたことで再度心を病みながらも、洋画家の東郷青児や阿部金剛と交流を深めていきました。この時期にはスイスの画家、パウル・クレーの作品に影響を受けた作品を多く描いていましたが、30代半ばの頃には作風が変化し、シュルレアリスムに傾倒した作品が増えていきます。

並行して舞台装置や挿絵の制作も行い、月刊誌に画論を掲載するなどの活動も行いました。30代になってから発病したと言われている梅毒や神経病に苦しみながらも古賀春江の制作活動は非常に活発で、二科展の出品や日本水彩画会の仲間と共に写生旅行に出かけるなどしています。最晩年には自身の作品に綺麗なサインが書けなくなっても制作活動だけはやめず、1933年、『サアカスの景』を最後に息を引き取りました。

 

 

 

買取に関するお問い合わせ

ご相談やご質問など、まずはフリーダイヤルでお気軽にお電話くださいませ。
  • お電話でのお問い合わせはこちら tel:0120-424-030
  • メールでのお問い合わせ