和骨董大辞典

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和田英作(わだえいさく)

和田英作(わだえいさく)

 

明治中期から昭和中期にかけて活躍した洋画家です。現・東京芸術大学の前身である東京美術学校の校長を務めたほか、文化功労者、また文化勲章受章者として認定されました。

 

和田栄作の歴史

 

1874年に鹿児島県の牧師の家で生まれ、3才の頃に家族で上京しました。和田栄作の父はその後海軍学校で英語教師を務め、栄作自身は5歳の時に教会で洗礼を受けています。小中学は東京・麻布の学校に通い、13才からは明治学院にて、洋画の基礎を学びました。そして在学中、内国勧業博覧会にて洋画家の原田直次郎らの作品を目にしたことをきっかけに、本格的に洋画を学ぶ決心をしたと言われています。こうして和田栄作は17歳の時に学校を中退し、明治学院で洋画を教わっていた上杉熊松の紹介により、曽山幸彦の画塾に入校しました。約2年後には曽山が亡くなりますが、以降は原田直次郎の設立した鐘美館という洋画塾にて学び、また黒田清輝の開校した天真道場でも腕を磨いています。

 

1894年からは日清戦争のため戦地へ赴きましたが、帰ってからは内国勧業博覧会をはじめとした数々の展覧会に出品しました。またこの時期には東京美術学校の西洋画科が設けられ、和田栄作は特例として4年生に編入学し、代表作でもある『渡頭の夕暮』を卒業制作として仕上げています。こうして西洋画科最初の卒業生となった和田栄作は、しばらくの間、西洋画科の教場助手をしていましたが、黒田清輝の紹介で東洋美術研究家のアドルフ・フィッシャーと知り合い、1899年からは渡欧することとなりました。和田栄作が最初に訪れたのはドイツで、ここではアドルフ・フィッシャーから日本美術の作品目録の制作を依頼されていました。その後文部省より命ぜられたフランス留学で、パリのアカデミー・コラロッシにて木炭画や油絵、装飾美術などを学び、以降約3年間フランスで密な制作活動を行っていきます。この間にはルーブル美術館へ通ったり、イタリアにも足をのばすなどし、これらの経験を活かし、帰国後は東京美術学校の教授職を務めました。

 

また、30代の頃には国内で多くの作品展に出品を重ねたとともに、文展や文部省美術審査委員会、伊太利万国博覧会などで審査員や評議員を任されています。そのほか制作活動では東京駅や赤坂離宮の壁画や慶應義塾図書館のステンドグラス原画などを作成し、40代後半には日仏交換展の代表として再びパリへ向かいました。この時和田栄作はフランス官設美術展覧会に日本美術品の出品を行い、帰国後日本政府より勲四等瑞宝章を。フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章を受章しています。1932年には東京美術学校の校長に任命され、続いて帝室技芸員にも認定されました。

 

 

 

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