和骨董大辞典

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国吉康雄(くによしやすお)

明治中頃から昭和中頃にかけて活躍した洋画家です。油彩以外にリトグラフも制作しており、作品からは鮮やかな色合いの中にも東洋的な哀愁が感じられます。

 

 

 

国吉康雄の歴史

 

岡山県で人力車夫をしていた父のもとに生まれた国芳康雄は、小学校卒業後、15歳で岡山県立工業学校の染料科に進学しましたが、2年後に退学し、アメリカへ渡りました。移住後はシアトルやロサンゼルスでボーイ、鉄道掃除夫などの肉体労働をしながら、ロサンゼルス美術図案学校に通う学生生活を送っています。やがて25歳になるとニューヨークに移り、インデペンデント・スクール・オブ・アーツをはじめとしたいくつかのアートスクールで学び始めました。

この間にはアメリカ人画家のケネス・ヘイズ・ミラーやジュール・パスキンなどと知り合い、多くの刺激を受けたほか、1917年に新独立美術協会展へ出品するなど展覧会への出品も精力的に行っていくようになります。前衛的な画家の集うペンギン・クラブの展覧会やインデペンデント展への出品を重ねるうちにパトロンも得、作風はモダニスム的画風に加え、印象派からも影響を受けました。こうして30代の頃にはアメリカ国内でも名を馳せ開催した個展でも大きな注目を集めたほか、サロンズ・オブ・アメリカの会長にも抜擢され、1922年から14年間、会長職を歴任しています。

1925年、パリへ渡った国吉はピカソやユトリロなど当時の画家と交流し自身の画風にもその刺激を活かしていきます。また、現地のサーカスにも大きな影響を受け、サーカスの少女を頻繁に画題に取り上げるようになりました。また、3年後に再度ヨーロッパへ訪れた際にはリトグラフも制作しており、翌年にはニューヨークの現代美術館による『19人の現存アメリカ作家展』の1人として選出され、アメリカでも有名画家のひとりとして仲間入りを果たしています。さらに国芳康雄が42歳の時には、日本に一時帰国すると歓迎会が開催されるほどで、二科会員の推薦や各所での個展の開催を行いましたが、長年アメリカで活躍していた国吉の作品は日本で一般的には理解されがたい部分もありました。

 

その後国吉がアメリカ戻ると間もなくして日米戦争が開戦しています。すでにアメリカ人画家としても名を馳せていた国吉は、戦時中収容所に入れられることはありませんでしたが、対日的な活動要請を多く引き受けていた時期もありました。表現にも葛藤を繰り返す中で生まれた虚無感や哀愁は作品にも表され、1944年に発表した『110号室』はカーネギー・インスティチュート全米絵画展で1位を獲得しています。以降、戦後もアメリカ美術界で活躍した国吉は、美術家組合の設立によって美術界におけるニューヨークの知名度の上昇に貢献したほか、美術館での回顧展の開催も成功させ、64歳で息を引き取りました。

 

 

 

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