明治初期に生まれ昭和中期にかけて活躍した絵師です。
長い間、師である小林清親を支え、独立後は石版画や新版画に携わるようになり、版画家として名声を得ています。“光逸”は号で、そのほか“清鳳”や“真生”とも称していました。
土屋光逸の歴史
1870年、静岡県の農家で生まれた土屋光逸は、佐平と名づけられました。その後10代中頃で東京へ出ると、一事は坊主になるため寺へ入りますが、住職に坊主になるには不向きと判断され、彫刻師に弟子入り。この時まだ15、6歳であったと言われていますが、当時から佐平は画家となることを強く志しており、まもなく記者・鶯亭金升(おうていきんしょう)の紹介で、浮世絵師の小林清親の門下生となっています。弟子たちの中でも最年少であった佐平は、以降、当時40代にさしかかっていた小林清親の仕事の手伝いのほか、家の中の大工仕事や家事、また小林家に生まれた子供の子守りなどにも務め、師弟の関係というよりも家族同然に暮らしていました。
一方で修業の方では小林清親から、絵に加えて石版画についても指導を受け、“光逸”の号を授かっています。その後は土屋光逸の名で教育書を手掛けたり、木版画作品などを発表。30歳となる頃には小林清親を紹介した記者・鶯亭金升の、義理の妹と結婚しました。そして独立後も師弟関係は続き、1902年、小林清親が新聞社の起こした事件に関係しているとの疑いで一時留置所に入れられ多くの門弟たちが去っていく中、土屋光逸含め、同じく門弟でのちに蒐集家となった三田平凡寺、絵師となった田口米作の三名だけは師の元に残っています。
それから数年の間は小林家を継続して支え続け、仕事を順調にこなしていきますが、土屋光逸が40代となった頃、妻と小林夫妻が立て続けに亡くなり、自身も体調を崩しています。まもなく1918年には再婚しますが、翌年には妻を失ったほか、関東大震災で被災。その後50代半ばで再び結婚したのちは、海外、特に中国に向けた輸出用の掛軸の絵の制作で生計を立てていきました。
やがて1931年には、亡き師の展覧会を開催していた版元の渡辺庄三郎と知り合い、これをきっかけに新版画の制作を勧められます。当時すでに60歳を超えていた土屋光逸でしたが、翌年に渡辺版画店の展覧会に出品した新版画作品が好評となり、以降は新版画家としても名を広めていきました。中でも特に風景画を得意とし、渡辺版画店以外にもいくつかの版元から新作を次々と発表。始めてからわずか3年後に出版された版画家の番付誌には、上位に挙げられるほどとなっています。
第二次世界大戦の戦禍となると、当初は輸出向けの肉筆画や風景版画を制作していましたがその後販路も途絶え、戦後は戦争で家族を失った遺族のために肖像画の制作などを行っていました。晩年は風景画のほか中国に伝わる神仏の像や掛け軸を得意としていたようですが、1949年、79歳で息を引き取っています。