明治中頃から昭和中頃にかけて活躍した洋画家です。キュビスム風の作品を残した多くの日本人洋画家の中でも、特に熱心にキュビスムの作品を学び制作した芸術家のひとりです。
坂田一男の歴史
岡山県の医者の息子として生まれた坂田一男の家は、祖父も医師、父はそれに加えて岡山大学の外科の開祖ともいわれる存在であったため、当初は自身も医師を目指して高校受験に挑みました。しかしここで不合格となってしまい、これがきっかけで坂田は絵の勉強を始めたと言われています。そして画家を志すようになると19歳で東京に移り、20代中頃からは本郷絵画研究所や川端画学校で、岡田三郎助や藤島武二に絵を学びました。
その後木炭画や油彩画を制作し、32歳の時にフランスへ渡っています。現地ではパリにある美術学校グランド・ショミエールに入学し、しばらくするとキュビスムの画家としても知られるフェルナン・レジェの研究所などで学び始めました。ヨーロッパ滞在中はこのほかフォービスムの画家として挙げられるオトン・フリエスの研究所でも助手のような役割をしながら制作活動も行い、サロン・ドートンヌやサロン・デ・ザンデパンダンに出品しています。
やがて坂田が44歳の時には日本に帰国し、故郷である岡山にアトリエを構えます。戦後も積極的に制作活動を行い、キュビスムをベースに坂田独自の抽象画を確立。また、60歳の時には「A.G.O.(アヴァン.ギャルド.オカヤマ)」を主宰し、作品制作と後進の育成の場にあてました。以降、何度か国内でも個展を成功させ、67歳の時に息を引き取っています。
坂田は生涯日本の中心的な画壇からは距離を置いていました。また渡欧中の作品はほとんど持ち帰らず、帰国後に描いた作品は岡山県を襲った2度の洪水でほとんどが失われてしまいます。残ったのは50点ほどと言われており、そのため坂田一男の名が広く知れたのはほぼ自身が亡くなった後のことでした。
グランド・ショミエール芸術学校
1902年にフランスのパリにできた美術学校です。スペインで生まれた画家、クラウディオ・カステルッチョが創設し、現代まで続いています。1866年に設立され、高村光太郎や梅原龍三郎が学んだアカデミー・ジュリアンなどの私立美術学校より月謝が安価であり、好きな期間、または時間のみの入学も可能な開放的なシステムでした。
同校では坂田一男のほか、日本の古民家を多く描いた洋画家の向井潤吉や、芸術家の岡本太郎も学んでいます。