和骨董大辞典

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大沢昌助(おおさわしょうすけ)

1903年に生まれ、人物を題材とした簡潔な線と明るい色彩を基調とする作品が特徴的です。

 

 

 

大沢昌助の歴史

 

東京都で生まれた大沢は、父の大沢三之助が東京美術学校の教授を務めていたこともあり、幼少期から絵に興味を持っていました。中学の頃には水彩画を父から学び、父と交流のあったバーナード・リーチや富本憲吉など、後に人間国宝となる芸術家たちを知り、当時の日本の美術に深く親しんだ環境で育っています。

19歳になると東京美術学校の西洋画科に進学してデッサンを学び、洋画家の藤島武二の教室で絵画を学びました。大沢は同校を首席で卒業し、翌年には二科展で初めての入選を果たしています。当時二科展での入選は難しかったためにこれは新聞でも取り上げられ、これをきっかけに大沢は画家としての名を広めることとなりました。

やがて30代の頃からは東京美術学校の卒業生によって設立された「三春会」や、「新美術家協会展」などの新興美術団体に作品を出品し、まもなく会員となっています。以後、二科展を含めこれらの展覧会にも出品を続け、数々の賞を受賞しました。さらにサロン・ド・メ展やサンパウロ・ビエンナーレ展、など国外の展覧会にも出品を重ねています。

 

日本を代表する画家として油彩作品を多く制作した大沢でしたが、30代から40代の頃は一時期童話本や絵本の挿絵なども多く手がけました。51歳からは多摩美術大学の教授となって後進の教育にも携わり、同時に、世田谷区役所や多摩美術大学にモザイク壁画を制作するなど、自身の制作活動も並行して続けています。

その後も67歳まで教授として大学に勤めた大沢は、退職後も晩年まで、作品の制作を行いました。

 

 

 

サロン・ド・メ展

 

フランスのパリにて、毎年5月に開催されていた美術展覧会です。直訳すると『5月の展覧会』となり、1943年に一部の前衛画家たちによって設立されました。当初は対独のレジスタンス運動の一環として1945年に初めての展覧会が催されましたが、スペイン画家のジョアン・ミロやパブロ・ピカソらが亡くなるまで毎年出品が行われました。

 

ほかのサロンとは異なり、出品は招待制で行われていたため、世界で注目されている展覧会といえど当初はヨーロッパに在住する芸術家以外の芸術家が出品することは非常に難しいとされていました。しかし、やがて1981年の頃からは展覧会役員たちの提携が行われ、日本の画家たちにも出品の機会が訪れています。

 

 

 

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