和骨董大辞典

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安井曾太郎(やすいそうたろう)

 

明治中期から昭和中期に活躍した洋画家です。非常に鮮やかな色使いで風景や人物をよく描きました。

 

 

 

安井曾太郎の歴史

 

京都の木綿問屋に生まれた安井は、10歳で4月商業学校に入学しました。しかし15歳の頃にはすでに絵画に興味を持っており、周囲の反対を押し切り同校を中退。翌年には聖護院洋画研究所に通い始めます。ここでは鹿子木孟郎や浅井忠に学んだほか、先輩にあたる画家・津田青楓がヨーロッパへ行くことを聞き、これをきっかけに安井も同行を決心しました。そしてヨーロッパへ向かうにあたり、安井はそれまでの作品をすべて処分しています。

 

19歳でフランスへ渡ると、アカデミー・ジュリアンにて画家のジャン・ポール・ローランスから洋画を学んだほか、ポール・セザンヌやジャン=フランソワ・ミレーに影響を受けるなどし、素描コンクールで度々首席の成績を収めました。ヨーロッパには約7年滞在しましたが、この間安井はフランス以外にもルネサンス彫刻やエル・グレコの作品にも興味を持ち、イタリアやスペイン、イギリスにも訪れています。その後第一次世界大戦の開始と自身の体調悪化から日本に帰国した安井は、翌年渡欧中に制作した40点以上にのぼる作品を二科展に出品し、二科会会員となりました。

 

以降二科展には毎年出品していますが、アンドレ・ドランやピエール・ボナールなどの作品に影響を受けながら、自身の画風を模索する期間に入っていきます。やがて40代の頃になると風景画や静物画、肖像画などにおいて独自の画風を確立し、48歳で帝国美術院会員に。その翌年は仲間たちと共に一水会の立ち上げに尽力し、続けて帝国芸術院の創立にも立ち会い同会員となるなど、要職を歴任しました。こうして梅原龍三郎と共に当時の洋画壇を先導する画家となり、両者共に東京美術学校の教授となるなど後進の育成にも励んでいます。また、56歳の時には帝室技芸員に任命され、さらに1952年、64歳の時には文化勲章を受章するなど、晩年も大きく活躍しました。

 

 

 

アンドレ・ドラン

 

19世紀後半から20世紀半ばにかけて活躍したフランスの画家です。マティスなどと同じくフォービスムの画家の1人ですが、そのほか点描画のような作品やキュビスムに影響を受けたと思われる作品など、かなり幅広い分野の作品を制作しました。18歳からアカデミーで絵を学び始め、画家として活躍するようになると、マティスやピカソなどと交流し刺激を得ています。また40代の頃からは舞台美術や装飾を手掛けたほか、挿絵や彫刻作品などの制作も行いました。

 

当初はフォービスムの特徴ともされる激しい色使いの作品も多くありましたが、後年は伝統的な遠近法や陰影などの技法を駆使した静物画、または人物がが多く見られます。

 

 

 

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