和骨董大辞典

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安田靫彦(やすだゆきひこ)

 

明治時代半ばから昭和後期にかけて活躍しました。

日本画家として知られていますが、能書家としての一面もあり、江戸時代の僧・良寛の作品の研究においてもその名が知られています。

 

 

安田靫彦の歴史

 

安田靫彦は1884年に東京にある料亭の息子として生まれました。幼少期は体が弱く、父が亡くなった後は家族で上野の方へ転居したと言われています。近くに位置していた上野公園の博物館や美術館などを周る中で、横山大観らをはじめとした当時の日本画壇を代表する画家たちの作品を鑑賞。これにつよく感動したことがきっかけとなり、画業を志し始めました。その後14歳で日本画家の小堀鞆音に指導を受けるようになり、早くも展覧会への作品出品を経験しています。また、紫紅会の結成にも携わり、作品制作と並行して日本画についての知識を深めていきました。

やがて17歳になると、一時は東京美術学校に進学するもすぐに辞めてしまいますが、翌年は院展にて褒状の一等を獲得し、才能を表していきます。同時期に訪れた京都と奈良では、現地で古美術作品を目にし、これに受けた影響を活かした作品も制作しました。

 

その後は展覧会への出品を継続し、1907年には東京勧業博覧会にて2等賞、また文展で3等賞を獲得。同年、岡倉天心から招待され、日本美術院にも参加しています。これに参加したことで再び奈良に赴くこととなった安田靫彦は、改めて古美術の研究を行い、岡倉天心、続いて横山大観らと親交を深めていきました。日本美術院の再興の際には主要メンバーの1人にもなっています。20代半ばには体調を崩したため養生しながらも、自身の制作活動は絶えず続け、日本絵画展覧会や紅児会、そして文展へ出品し賞を得たほか、院展には初回から出品を行いました。

 

30代頃からは中国古代のやきものや土人形の収集、また書家の良寛の書の研究に打ち込んでいきます。画家としても展覧会の審査員を務めるなどして大いに活躍しており、1920年代末には古代日本の風俗画を集めた画集が出版される際に、その解説も務めました。これらの功績が認められ50歳の時には帝室技芸員となり、1944年からは東京美術学校の教授に就任。1948年、64歳の時には文化勲章受章者となっています。

この間にも各展への出品と作品制作は続いており、70代以降も継続して出品を行ったほか、舞台美術の監修や日本美術院の理事長、厳島神社に収められた国宝を含む古美術品の装飾・修理なども担当。また1963年には紺綬褒章を受章し、まもなく東京芸術大学の名誉教授にも就任。翌年にはロシアで行われた日本画の作品展に作品が出品され、法隆寺の壁画の再現模写にも携わるなど国内外で活躍していきます。晩年まで作品の出品や歌集の出版を行い、1978年、94歳で息を引き取りました。

 

 

 

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