和骨董大辞典

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富岡鉄斎(とみおかてっさい)

 

江戸後期、天保の時代に生まれ、大正末期にかけて活躍しました。

儒学者、または文人画家としてよく知られており、生涯で1万点以上もの絵画作品を残したと言われています。

 

 

富岡鉄斎の歴史

 

1837年に京都で袈裟を売る商家に生まれた富岡鉄斎は、幼い頃から家学でもあった、儒学や仏教を題材とした心学(倫理学の一種)を学んでいました。幼少期の病が原因で少々難聴ではありましたが、熱心に勉学に励み、10代半ばの頃からは漢学や詩文、国学の指導も受けています。その後1855年頃になると、歌人であり尼僧でもあった大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の侍童となり、高齢の蓮月が作陶をする際にはそれを助けるなどして共に生活を送り、富岡鉄斎自身の成長にも大きく影響しました。この間には絵も学んでおり、一人の師に学ぶという形ではなく、琳派、円山派、または文人画、大和絵など多彩な流派の絵師からそれぞれ教わり、独自に作風を展開していきます。こうして20代になると画業に進み、また私塾をひらいて勤王家の武士たちと親交を深めました。

 

明治維新ののちには日本各地を旅し、各所の神社で宮司を務めながら画業を続行。北海道をはじめとしたその土地々々の風景や風俗画を描き、30代前半の頃には京都の私塾で教鞭を執っています。その後も知人を訪ねて山梨や、古代の皇族の跡を追って長野、また神奈川や東京へも訪れました。40代半ばの頃には大阪で宮司をしていましたが、この頃に京都の兄が亡くなり、これを機に富岡鉄斎は京都に帰郷。以降はここで主に自身の作品制作や読書に熱中したと言われています。

やがて1890年頃からは京都の美術学校での指導を任されるようになり、約10年の間ここで教壇に立ったほか、並行して数々の展覧会の審査員なども務めました。

 

 

70代手前となる時期に美術学校での教職を退任したのちは、一時体調を崩すも持ち直し、1917年に帝室技芸員技芸員として認められています。功績としては展覧会への出品よりも、1897年の日本南画協会の結成や各展示会の評議員を務めたことの方が多かったようですが、60歳を過ぎたあたりからの作品にはさらに磨きがかかり、富岡鉄斎独自の画風が確立されていきました。当時進出していた油彩画や、西欧諸国の作品から影響を受けた新日本画などとは対照的に、中国の古典を題材にした文人画を多く描き、“日本最後の文人”とも称されています。

晩年は個展の開催などを行いながら、ますます制作に熱中しましたが、1924年、87歳で息を引き取っています。

 

 

 

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