明治時代後半から昭和末期にかけて活躍した洋画家です。晩年には自身で美術振興財団を設立し、油彩画修復師の留学援助などにも尽力しました。
小山敬三の歴史
長野県の醸造家の次男として生まれた小山敬三は、18歳で中学校を卒業すると慶応義塾大学の予科に進学します。しかし間もなくして画家を志して同校を退学し、川端画学校に通い、ここでは洋画家の藤島武二に絵画を学びました。その後21歳で二科展に出品した『卓上草花図』が初入選し、さらに同年、再興日本美術院展でも出品作が初入選を受賞します。
1920年には小山敬三の父の知り合いであったともいわれる小説家の島崎藤村にすすめられ、フランスへ渡ることとなります。現地ではパリのアカデミー・コラロッシュにて洋画家のシャルル・ゲランに改めて油彩画を学び、25歳の時にはサロン・ドートンヌで出品作が初入選を果たしました。さらに、その同年には外国人との結婚がまだ珍しかった当時にフランス人の妻を迎え、1926年にはサロン・ドートンヌの会員に推薦されるまでとなります。また翌年には初めての個展を成功させ、作品の一つがフランス政府の買い上げとなるなど、日本人画家としてその名を大きく広めました。
約8年の渡欧生活を終えた小山敬三は31歳で日本に帰国し、翌1929年には茅ケ崎にアトリエをつくります。ここから積極的に活動を行い、春陽会展には渡欧中に制作した作品の陳列、数年後には同会を退会し二科会員となりますが、やがて二科会も退会すると画家仲間の石井柏亭や安井曽太郎と共に美術団体・一水会を創立しました。1937年には約一年の間ふたたびフランスに滞在し、戦後は日展や一水会に作品を出品しています。また、小山敬三が50代となるころには日展審査員を務めるまでとなり、その後も日展の評議員や理事、また日本芸術院の会員など要職を歴任しました。制作活動においても、59歳で発表した『白鷺城』の連作で日本芸術院賞を受賞し、個展の開催も行うなどしたことで、70代の頃には文化功労者、そして地元・小諸市の名誉市民として表彰されています。さらに1975年、小山敬三が78歳の時には洋画の部門で文化功労者として認められました。
以降も制作活動に励んだほか、晩年には「小山敬三美術振興財団」を創立し、後進の美術活動の援助に尽力しました。1987年、89歳で息を引き取っています。