小杉放庵(こすぎほうあん)
明治前半から昭和半ばにかけて活躍した洋画家です。「小杉放庵」の名前のほかに「放菴」、「未醒」などの雅号も使用しています。
小杉放庵の歴史
1881年、日光の二荒山神社の神官の子として生まれました。父は国学者であり、また町長も務めていたといいます。小杉放庵は日光と宇都宮で学生時代を過ごし、15歳の時に中学を中退して日光で活動していた洋画家・五百城文哉(いおきぶんさい)に師事していました。その後一時は五百城文哉に断りなく上京し、白馬会の洋画研究所に入りましたが、打ち解けらず、病を患い帰郷し、再度五百城の弟子となっています。19歳になると今度は正式に上京し、小山正太郎の創設した不同舎にて絵を学び、約2年後には太平洋画会に参加しました。
自身の作品制作を続けながら、1903年からは近事画報社にて漫画や挿絵の制作、また戦時中には従軍記者として戦地にて現場風景を絵に残し、同社の雑誌に大きな成果を残しています。そのほかいくつかの美術誌の創刊に加わって腕を磨き、27歳から文展に出品を始めると3年連続で出品作品が賞を受賞しました。この時期は洋画を中心に制作していた小杉放庵でしたが、1913年に留学したフランスで文人画家の池大雅の作品を見たことにより、日本画にも強く興味を持っていきます。翌年に帰国したのちは墨絵の制作も始め、並行して日本美術院にて洋画部の中心としても活動しました。
やがて30代半ばからはそれまで自身が所属していた芸術団体を続けて脱退し、山本鼎らの仲間たちと新たに「春陽会」を創立しています。そしてこの頃に自身の号を改め、「放庵」と名乗るようになったと言われています。
以後、1925年からは東大の安田講堂の壁画制作、毎年夏に行われる都市対抗野球大会の優勝旗のデザインなどを手掛け、帝国美術院の会員なども務めました。また、世界大戦中には空襲から逃れるべく新潟県へ移住し、水墨画などの日本画の制作に打ち込んでいます。
五百城文哉(いおきぶんさい)
江戸時代末から明治時代にかけて活躍した洋画家です。水戸藩で生まれ、一時は教師を務め、やがて20代の頃に洋画家の高橋由一の弟子になり絵を学びました。この間は農商務省に籍を置いていましたが、やがてここを退職すると画業に専念し、新潟や関東地方の各所を巡りながら肖像画や風景画などを描きました。シカゴ万博への出品なども行った、植物画を得意とする画家として知られています。