江戸の末期、安政の時代に生まれ、大正半ばにかけて活躍しました。
日本画家、または浮世絵師として江戸から明治にかけての過渡期に多くの代表作を生み出しています。
尾形月耕の歴史
1859年、尾形月耕は江戸で地主をしていた家に生まれました。本名は名鏡正之助といい、生家は祖父の代から大名家などに人材を派遣する手配師(口入屋)の職と、ごみ収集の権利を持っていたため大変裕福な家庭で育ちましたが、17歳の頃に父親が病で亡くなると、これらの権利はほかに渡ってしまいます。家もまもなく衰退してしまいますが、その後正之助は父からの薦めがあったこともあって絵を独学で学び始め、特に絵師の菊池容斎の作品である伝記集の『前賢故実』には強い影響を受けました。また並行して提灯屋を始めると、自ら作った見本を手に、錦絵を描かせてもらえるところを探し歩き、人力車や遊郭の装飾絵を手掛けたほか、当時欧米諸国への輸出品として重宝されていた七宝焼の作者・濤川惣助に認められ、同じく輸出を目的とした陶磁器の下絵描きをこなして自身の腕を磨いていきます。さらに1877年頃には『征韓論』と言われる時事ものの錦絵を自費で刊行し、これが世間の注目を集めると、徐々に名鏡正之助の名が広まっていきました。
その後、襲名によって“尾形”を名乗ることが許されると、翌年、1882年頃からは現在でも知られる尾形月耕の号を使い始めます。画家としての仕事が大いに増え、単行本や新聞の挿絵を数多く担当していくと、20代後半になった時には当時の人気浮世絵師の7番目に位置づけられるなど高い評価を獲得。また自身の技術の向上にも積極的で、肉筆画の修行を続け、1885年には鑑画会に出展するなどしました。以降も挿絵の制作において特に人気が増していき、小説や、人気作家の著書の挿絵を担当したほか、錦絵においても国内だけでなく国外向けのもの、そして日清戦争の情景を表現したものなど多様な作品を制作・出版していきます。中には10年に渡って連載された21巻に及ぶ漫画作品もあり、当時を代表する画家としての立場を確固たるものにして行きました。
この間には日本青年絵画協会の創立に携わって審査員を務めたり、同会や連合絵画共進会の展覧会では一等を含めたいくつかの賞を受賞。1898年に発表した作品は明治天皇の買い上げ品となったほか、シカゴやパリの万国博覧会への出品、晩年は1912年の文展に作品を出品し注目を集めるなどの活躍を見せました。
そして1920年、60歳で息を引き取っています。