和骨董大辞典

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山下菊二(やましたきくじ)

 

大正中期に生まれ、昭和末期にかけて活躍した画家です。

シュルレアリスムの影響を受け、自身の経験した戦時中の体験などを主題に作品を制作しました。

 

 

 

山下菊二の歴史

 

山下菊二は1919年に、徳島県で菓子製造業を営んでいた家庭に末っ子として生まれました。幼い頃から絵に強い興味を持っていましたが、これは10歳年上の兄の1人が中学生の時に油絵や版画の制作に打ち込み、成人すると展覧会への出品を行っていたことが強く影響していると言われています。山下菊二はその後高等小学校を卒業すると、できるだけ絵を描くことのできる環境を求め、香川県にある工芸学校の鋳金科に進学。在学中には兄の所属する美術団体のグループ展に、油彩画や塑像などの作品を出品し改めて画家を志す意思を固め、工芸学校の卒業後は福岡で百貨店の宣伝・広告業の職に就きました。

 

しかし、画家の道をあきらめきれず、約1年後には退職して上京し、19歳で洋画家の福沢一郎の主宰する研究所に通い始めています。もともとこの研究所は東京美術学校の師範科へ進学する為、両親から許しを得て通っていましたが、その生活が気に入り、結果的に進学は断念。以降も制作活動を続けていた山下菊二でしたが、1939年には大戦に向けた召集に応じて中国に派遣され、現地民への酷い仕打ちを目の当たりにするなどして強い衝撃を受けました。

3年後に除隊して帰国し、福沢一郎からアトリエを借りた山下菊二は、制作活動を再開しています。翌年には仲間たちとグループ展の開催を行ったほか、25歳の時には美術文化協会展で美術文化賞を受賞。また、25歳からは東宝映画の資料制作所に勤め始めましたが、約一年間の勤務ののち、再び召集を受け徳島県に派遣されました。二度の兵役経験の中で山下菊二は、敵国、自国、そして滞在先など身近で起こる残虐な行為を目の当たりにし、終戦後もそのイメージは絵画表現の主題として多く取り上げられています。

 

その後は日本共産党に参加するなど政治的運動にも関わり、並行して続けていた作品制作では、50代の頃になると天皇のモチーフをコラージュとして多く取り入れています。一時は東京造形大学の非常勤講師なども務めながら展覧会への出品も晩年まで続け、67歳で息を引き取りました。

 

 

 

コラージュ

 

「のり付け」という意味のフランス語が語源になっています。様々な素材を組み合わせて絵や壁画を完成させる技法のことで、19世紀に活躍した芸術家のパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが先駆けだと言われています。

 

 

 

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