明治後期に生まれ、昭和末頃にかけて活躍した日本画家です。
主に風景画を得意とし、多くの後進を指導しました。
山本丘人の歴史
1900年に東京で生まれた山本丘人は、東京音楽学校で事務官を務める父がいましたが、15歳の時に入学した工芸学校の在学中に、彫金と日本画などの美術を学ぶ機会を得ます。また18歳の時には国画創作協会の展覧会に訪れたことをきっかけに日本画に強い興味を持つようになり、そして翌年、東京美術学校の日本画科に進学しました。同校では当時教授を務めていた松岡映丘に高く評価されたと共に、大和絵の指導を受け、1924年に卒業。まもなく松岡が開く画塾・木之華社、そして本郷洋画研究所などに通って腕を磨き、27歳の時に新興大和絵会展に出品した作品が初入選を果たしています。翌年には帝展への出品作が同じく初入選となり、続けて29歳の時には新興大和絵会賞の受賞、翌1930年から1933年にかけては帝展で毎年入選作に選ばれました。この頃から雅号を“丘人”とし、個展の開催を行ったほか、30代半ばの頃には松岡映丘の下で学んだ画家仲間たちと美術団体の瑠爽画社を創設して活動しています。
1943年には日本画家の川崎小虎を中心に東山魁夷、加藤栄三らと共に国土会を設立し、翌年からは母校でもある東京美術学校の日本画科、その後1947年には女子美術専門学校で教鞭を執りました。以降も日展の審査員や、やがて新制作協会の日本画部となる美術団体・創造美術を設立したほか、作品制作の面では1944年に野間美術賞、また1950年には創造美術展に出品した作品で芸能選奨文部大臣賞を受賞するなどして、教育者、そして美術家・画家としての功績も多く積み上げていきます。その後も画家仲間たちと鼎会、雨晴会、そして新制作協会から離脱した日本画部を創画会、と改めるなどいくつかの美術団体を結成して活発に制作活動を行い、1977年、文化勲章を受章。同年に文化功労者としても認められ、1986年、85歳で息を引き取りました。
川崎小虎(かわさきしょうこ)
山本丘人の所属した国土会の中心だった人物です。1886年に岐阜県に生まれた日本画家で、祖父には明治時代の日本画壇で名を馳せた川崎千虎がいます。幼い頃からこの祖父に南画や大和絵の指導を受け、東京美術学校では日本画、洋画、南画と幅広い分野を修学。卒業後は図画教師をしながら文展や帝展をはじめとした作品展に出品を重ね、のちにその才能が認められると帝展や日展で審査員を務めるまでとなりました。
40代になった頃には帝国美術学校の教授職も務めながら制作活動も積極的に行い、革丙会や東邦画会などの美術団体に参加しています。第2次世界大戦中には従軍画家を務め、戦時中にも朝鮮に美術展の審査員として渡り、帰国後には東京美術学校の教授に就任。同職は1943年から約1年間務め、翌年から終戦までは疎開先の山梨で写生に勤しみました。ちなみにこの間には、川崎小虎の長女が日本画家の東山魁夷と結婚しています。
終戦後は再び展覧会への出品を繰り返したほか、日本橋で行われた個展の開催も成功させ、同年、1961年に日本芸術院恩賜賞を受賞しました。以降も何度か個展の開催を行い、帝国美術学校改め武蔵野美術大学となった同校の名誉教授を務めましたが、50代中頃から徐々に体調を崩し、1977年、91歳で息を引き取りました。