江戸後期、1850年に生まれ、明治時代にかけて洋画家として活躍しました。明治期・大正期に活躍した有名な画家・黒田清輝に画家となることを勧めた人物としても話題に挙がる人物です。
山本芳翠の歴史
江戸後期に岐阜県の農家の長男として生まれた山本芳翠は、幼い頃から絵を好み、当時は多くの模写をして独学していたと言われています。その後10代半ばの頃に葛飾北斎の素描集『北斎漫画』を目にしたことをきっかけに画家を目指し、京都の南画家・久保田雪江から南画を学び始めました。この南画は中国の南宋画に由来するもので、山本芳翠はこれを学ぶ内に実際に中国で南宋画を学びたいと考え、港のある横浜に転居しています。
しかし実際に中国へ行ける伝手などはなく、困っている所で初代五姓田芳柳の横浜絵を目にしました。遠近法などを用いて描かれた横浜絵に感銘を受けた山本芳翠は、横浜でそのまま五姓田芳柳に師事し、南画から洋画に転向。五姓田の息子と共にチャールズ・ワーグマンに西洋画を学び、20代前半には上京して肖像画を描いて生活ができるまでとなっています。やがて26歳になると工部美術学校に入学し、イタリア人画家のアントニオ・フォンタネージに絵を学びますが間もなく退学しており、その後は内国勧業博覧会に出品した『勾当内侍月詠図』が花紋賞受賞、そして宮内庁が同作を購入したことでその名を一気に広めました。
以降も山本芳翠は意欲的に西洋画を学んでいきます。1878年には当時の実業家、岸田吟香や津田仙の助けを借りてフランスに渡り、エコール・デ・ボザールにてフランス人画家のジャン=レオン・ジェロームから画法を学びました。この留学は約10年に渡っており、器用で料理もこなした山本芳翠を慕い、黒田清輝も含め現地に長期滞在していた日本人たちはこぞって山本芳翠の元を訪れて日本食を食べた、と言われています。やがて37歳の時に帰国した山本芳翠は、トラブルで渡欧中の数百点の作品が失われてしまうものの版画家の合田清と画塾を設立。さらに1889年には仲間たちと明治美術会を創設し、以降は同会の展覧会に晩年まで出品を重ねていきました。
山本芳翠が帰国後に設立した画塾『生巧館』は、その後1894年にフランスから帰国した黒田清輝に『天真道場』として引き継がれていきます。一方、山本芳翠自身は京都にて、画家を志す後進を支える仕組みと自身の名を残そうと努力しますが実らず、日清戦争に参加後、45歳で帰国すると翌年には明治美術会を脱退。晩年まで白馬会への参加や西洋風の舞台装飾の担当を務めるなど精力的に活動し、1906年、56歳で息を引き取りました。