和骨董大辞典

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岩橋英遠(いわはしえいえん)

 

明治時代末頃に生まれ、平成前期にかけて日本画家として活躍しました。大学の教壇に立ち後進の指導にあたったほか、文化勲章をしています。

 

 

岩橋英遠の歴史

 

1903年に北海道の屯田兵の子として生まれた岩橋英遠は、道内の高等小学校を卒業したのち、当初は農業をしながら独学で油絵を描いていましたが、21歳の時に上京する決意をし、東京で日本画家の山内多門に師事し始めました。その後は塾展である若葉会に出品し、1932年に山内多門が亡くなったのちは、青龍展や新日本画研究会にも出品を重ねていきました。そして1934年、院展に出品した作品がついに初入選を果たします。続いてその2年後に同展で再び入選し、翌年には日本美術院の院友として選ばれました。

 

1938年には、岩橋英遠はそれまで活動していた新日本画研究会を離れ、船田玉樹をはじめとする芸術家仲間と共に抽象的な表現を含んだ新しい日本画の表現を追求するため、歴程美術協会を設立。またこの前後には日本画家の安田靫彦に改めて学んでおり、のちに正式に支持するようになります。これによって、より腕を磨いた岩橋英遠は46歳の時に院展で奨励賞を受賞したほか、それから2年続けて出品作が日本美術院賞となり、この功績から1953年には同人となるよう推薦を受けました。さらに同年院展に発表した作品が、翌1954年に芸術選奨文部大臣賞を受賞しその才能が認められていきます。50代半ば頃からは東京芸術大学の教壇に立つようになり、院展にて文部大臣賞を受賞、そして初の個展を成功させるなど、以降は晩年まで幅広い活躍を見せていきました。

 

岩橋英遠は67歳まで続けた教授職のほか、法隆寺金堂の壁画再現事業の参加や、その後も各地での個展の開催、展覧会への出品などを行い、1994年、91歳のときに文化勲章を受賞しています。そして5年後、1999年に息を引き取りました。

 

 

 

山内多門(やまうちたもん)

 

明治後期に生まれ、昭和前期にかけて活躍した日本画家です。宮崎県の生まれで、故郷で狩野派の絵師から日本画を学び、21歳で上京しました。川合玉堂などに師事し、その後1900年に行われた日本美術協会の展覧会に出品した歴史画が初入選となると、徐々にその名を広めていきます。この頃の山内多門の作品は狩野派の伝統的な表現よりも、当時打ち込んでいた雪舟の作品に影響を受けたとみられるものが多く、一時期は大病を患い禅に興味を深めたことでより一層、心情的な部分の表現を心掛けた作品がみられると言われています。しかし、その後は味わいのある画風に傾倒し、自身の制作活動のほか官展の審査員なども務めるようになりました。

50代前半頃には後進の教育にも尽くしましたが体調を崩しがちになり、1932年、54歳の若さで息を引き取っています。

 

 

 

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