1891年に生まれ、黒田清輝に伝統的な洋画を学んだ後、東洋美術にも興味を持ち、独特の存在感のある静物画を得意としました。黒髪のおかっぱ頭に赤の肩掛けをした娘を描いた『麗子微笑』が有名です。
岸田劉生の歴史
東京に生まれた岸田は、薬屋を営む家庭の4男として育ちました。父は薬屋を経営しつつ、日本にヘボン式ローマ字を伝えたアメリカ人医師ヘボン博士を助け、和英辞典を編集するなど事業家として活躍していましたが、岸田が10代半ばの頃に妻と相次いで亡くなっています。その後岸田は中学を中退し、父の通っていた教会で洗礼を受けクリスチャンとなりました。
やがて牧師のもとで教会の日曜学校の教師をしながら、洋画を学び始めます。これをきっかけに美術団体白馬会の研究所にも参加し、黒田清輝のもとで制作を続けると、19歳の時の文展で作品が入選を果たしました。早くも画家としての名を広めることとなった岸田は、雑誌『白樺』の購入をきっかけに印象派絵画への興味をより深めたと共に、当時活躍していた芸術家たちと交流を深めていきます。翌年には個展も開催し、フュウザン会への出品も遂げました。また、この間に結婚し、23歳の時に長女の麗子が誕生しています。翌年には写実的な画風を方針とする草土社を創立し、全9回あったこの展覧会に、岸田は毎年出品しました。
制作活動に励む中、26歳の時結核との診断を受け、岸田は神奈川に移住しています。この神奈川での生活は岸田の最盛期と言われており、西洋画の模写や麗子をモデルとした作品を数多く手がけました。その後、関東大震災を受け一時京都周辺に身を置きましたが、その間には中国書画や浮世絵に強い興味を持ち、画風に大きな影響を与えています。やがて鎌倉や満州(中国)を転々としましたが、その帰路で訪れた山口県で病が併発し、38歳のときに息を引き取りました。
白樺(しらかば)
1910年に刊行された文芸、または美術雑誌です。武者小路実篤や志賀直哉を中心とした上流階級の若者たちによって始められ、岸田劉生は表紙絵や文章も担当しました。第一次世界大戦中の日本において、自由や個性を主張した文学を全160号となるまで発行したほか、セザンヌやロダンなど西洋画家作品の展覧会開催とその紹介も行い、文芸界、美術界共に大きな影響を与えています。
草土社(そうどしゃ)
1915年に岸田劉生を中心として結成された洋画団体です。比較的暗めの色調に精密な写実性が特徴的で、同時期に二科展などとは対照的な画風が多く見られました。第一回展は現代美術社主催のもので、会には岸田のほかに椿貞雄や木村荘八などが参加しています。展覧会は1922年の第9回まで開催され、当時の青年画家たちに大きな影響を与えました。