和骨董大辞典

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川合玉堂(かわいぎょくどう)

 

明治初期に生まれ、昭和半ばにかけて活躍した画家です。

当時の代表的日本画家のひとりで、号である“玉堂”のほかにも、時代によって“玉舟”や“偶庵”などの号を使い分けました。

 

 

川合玉堂の歴史

 

1873年に愛知県で生まれた川合玉堂は、10代になる前に岐阜県に転居し、徐々に絵に興味を持っていきました。その後13歳の時に岐阜に訪れていた日本画家の夫婦、青木泉橋・翠蘋夫妻に出会ったことがきっかけで、画業を志したと言われています。翌年には青木泉橋からの推薦を受けて京都の望月玉泉に学び、3年後には日本画家の幸野楳嶺の画塾に移動。間もなく内国勧業博覧会に出品した作品が褒状を獲得すると、この頃から最も有名な号である“玉堂”を名乗り始めました。これによって注目を集めた川合玉堂は、日本美術協会での一等褒状や、京都市美術工芸品展覧会の三等など、いくつもの展覧会で連続して賞を受賞していきます。

22歳の時には師を亡くしますが、以降も制作活動と展覧会への出品は継続。また自身も出品していた同年の内国勧業博覧会で目にした、橋本雅邦の作品に感銘を受け、翌年には上京して橋本雅邦から指導を受け始めました。その後20代中頃には絵画共進会に出品した作品が農商務省に購入され、さらにその次の年からは、橋本雅邦の勧めもあって日本美術院の設立に携わるなど、日本画壇で徐々にその名を広めていきます。また、自身の画塾・長流画塾を開き後進の指導にも力を入れ始めると、各展覧会の審査員などを任せられるようになっていきました。

 

この間にも絵画共進会での銀牌獲得や、日本美術院展での一等賞、東京勧業博覧会でも一等賞を受賞するなど次々と功績を重ね、30代後半からはイタリア万博の監査委員、または東京美術学校の教授を任されるなど要職を務めていきます。その後約20年の間教壇に立ちますが、審査員などの職は並行して務め、一方で45歳頃には帝室技芸員に選定されました。帝国美術院の会員や、昭和に入るとフランス政府からのレジオン・ドヌール勲章、イタリアの皇帝から授かったグラン・オフィシエ・クーロンヌ勲章、またドイツ政府からの赤十字第一等名誉章も受章。国内外からその才能を評価されるようになりました。

 

 

60代になると東京美術学校の教授職、及び帝国美術院の会員の立場を退きますが、67歳の時には文化勲章を受章。以降は絵画作品の制作の傍らで、歌集の出版や自身の映画撮影に取り組むなど才能を多岐に広めています。晩年は病に悩まされながらも筆を動かし、1957年、87歳で息を引き取りました。

 

 

 

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