和骨董大辞典

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川端龍子(かわばたりゅうし)

 

明治前期に生まれ、昭和後期にかけて活躍しました。日本画家。

そして俳人としてもその名を知られています。

洋画を研究し、日本画のなかで、独自の世界観あふれる作品を生み出していきました。

 

 

川端龍子の歴史

 

1885年に和歌山県の呉服商の家に生まれました。幼少期に、風に舞ういくつものこいのぼりに感動し、職人のもとへ通ったことがきっかけで絵に興味を持ったと言われています。その後10歳の時に家族で東京に転居し、東京の小学校、中学校に進学。中学在学中には一般参加者も募った展覧会に、30点にのぼる作品を出品し、その内2つの作品で40円の賞金(当時の公務員の初任給が10円に満たないほどだったと言われています。)を得たことで、画家になることを本格的に目指し始めました。こうして翌年には学校を中退し、白馬会洋画研究所、さらに太平洋画会研究所に通って絵を学んでいきます。当初、洋画家になることを考えていた川端龍子は、20代になると新聞社で挿絵を描きながら、文展に油彩画を出品。1907年には初入選となり自信を付けると、28歳の時にはアメリカへ渡りました。

 

しかし、現地ではアジア人が描いた洋画はなかなか見向きされず、画業の難しさを実感することとなります。そんな中で立ち寄ったボストン美術館で目にした、日本の鎌倉時代の作品『平治物語絵巻』に強く感銘を受け、以降は洋画から日本画へ移行。帰国後は新聞社を辞め、東京大正博覧会に日本画を出品すると、早くも入選作品に選ばれます。さらにその2年後の院展では樗牛賞を受け、翌年には日本美術院の院友に推薦されました。

 

日本画家としてその名を広めるようになった川端龍子は、その後も院展を中心に数々の展覧会で作品を発表していきます。40代の頃には院展から退きますが、1929年に日本画団体青龍社を設立。それまで主流だった比較的小さな部屋で鑑賞する為の日本画に対して、“会場芸術”と称される大画面の作品を発表して話題を集め、さらにその名を広めていきました。この作品を展示した青竜展には亡くなる前年まで出品を続けており、そのほか1931年頃からは個展も開催しています。同年、朝日文化賞を受賞し、50代になるとさらに大型の作品を制作。帝国美術院、そして帝国芸術院の会員にも選ばれています。戦時中にも様々な規制がかかる中で作品を制作し続けますが、戦後は戦時中に亡くした息子と妻を想いながら度々四国遍路を行いました。この最中には各地で素描や句をのこし、後年、画文集として出版しています。

やがてこれらの功績が評価され、74歳の時には文化勲章を受章。以降も寺院の壁画を描くためにインドへ釈迦の起源を辿りに赴くなど熱心な制作活動を行いますが、1966年、80歳で息を引き取りました。

 

 

 

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