和骨董大辞典

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斎藤真一(さいとうしんいち)

 

大正中期に生まれ、平成初期にかけて活躍した洋画家です。

画文集の出版など作家としても活動しました。

 

 

斎藤真一の歴史

 

1922年に岡山で生まれた斎藤真一は、13歳で中学校に入学し、片道約14キロの道のりを自転車で登校する日々を続けました。在学中には陸上部に所属し、県大会での入賞や駅伝大会のアンカーを務め、学校を優勝に導くなどしています。しかし同時に絵にも強い興味を持っており中学の卒業年度には勧誘のあったマラソンを断り絵に専念しました。油絵具を買い与えられると斎藤真一はさらに絵に熱中するようになり、以降、中学よりも遠くにあった大原美術館に休みのたびに通い、西洋絵画を観て学んでいたと言われています。その後卒業前に教師に紹介された藤田嗣治の絵の写しに感動し、これがきっかけで美術学校に通うことを志しました。18歳で入学した岡山師範学校では受験のためのデッサンの練習に明け暮れ同校の2年生の時に東京美術学校に合格すると、上京して入学。在学中には出兵も経験しますが、無事復学し26歳で同校を卒業しました。

 

卒業後は静岡の中学校で教職を得ますが、並行して自身の作品制作も続け、1948年の日展では出品作が初入選しています。翌年には結婚して退職し、故郷の岡山で高校教師となりますが、同年も光風会展で入選。また3年後には同展でプールヴ賞を受賞し、1959年、外務省の留学生としてフランスへ渡りました。約2年間の留学の中で、斎藤真一はフランス以外にもイタリアやスペイン、ベルギーなどを周ったほか、アカデミー・グラン・ショーミエールで学び、自身で画家を志すきかっけにもなった藤田嗣治とも交流しています。

 

藤田から帰国後は東北地方を題材にして制作活動を行うことを勧められたことで、斎藤真一は38歳で日本に帰国すると、東京で個展を開いたのち青森県に訪れました。三味線やねぶた祭、そして盲目の女性旅芸人を意味する瞽女(ごぜ)に強い影響を受け、以降は晩年までこれらを題材にした作品を多く描いています。約10年の間、暇さえあれば瞽女のもとへ取材に向かい、完成した作品は個展で発表したほか、安井賞佳作賞の受賞を受賞。また瞽女について書いた著書でも日本エッセイストクラブ賞を受けました。教職と並行しながら画文集なども多く手がけ、1994年、72歳で息を引き取りました。

 

 

 

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