七宝焼きは金属を素地にした焼物の一種で、金銀や銅、鉄等の素地に釉薬を塗って焼くことで、陶気や磁器とは異なる、ガラスやエナメルの様な美しい色合いを出すことが出来ます。発祥はエジプトである様ですが、日本には7世紀前後に中国・朝鮮半島から伝わりました。日本最古のものは奈良県で出土した「七宝亀甲形座金具」というもので、当時から透明な釉薬が日本で扱われていたことが分かる貴重な歴史的資料となっています。
その後七宝焼きは、茶道の装飾品などとして流通していましたが、最も技術的発展を遂げたのは明治時代でした。当時七宝焼きは、西洋文化に圧倒されていた日本国内よりも欧米で流行し、国内での購入者は七宝焼きを好んでいた明治天皇、あるいは国外への贈答用として購入していた宮内庁がほとんどだったそうです。
職人たちは高い評価を得て、技術は短期間にどんどんと発展していきましたが、世界大戦の開戦と共に産業は衰退してしまいました。その為現在では明治期に生まれた七宝焼きの名作はほとんどが海外にあり、日本国内でも海外でも、非常に人気があります。
七宝焼きの名工
☆並河靖之(なみかわやすゆき):
京都を中心に活動していた七宝焼き作家で、有線七宝という技法を使っていました。有線七宝とは、素地に描かれた図柄に沿って細い金属線をかたどり、そこに釉薬を指して絵柄を表現するものです。特に並河靖之の作品は、金属線を蘭から採った糊で貼り付け銀蝋でそれを固定し、七宝粉を入れ込む作業を6.7回、さらに表面を磨く作業も6.7回重ねる為、多くの手間がかかったそうです。
並河靖之はより鮮やかな色彩表現を実現するために研究を重ね、その彩色の豊かさと透明感は彼の作品の特徴ともなっています。そして彼の発明で最も有名なものとなったのは黒色透明釉薬でした。これによってそれまで七宝焼きでは出せなかった艶やかで美しい黒が出せるようになり、色味も赤みがかった黒や青みがかった黒など複数発明しています。焼き上がりが漆黒になるため僅かな釉薬の乱れも出てしまい、技量が必要とされる釉薬ですが、並河靖之が1900年にパリ万博に出品した「黒地四季花鳥図花瓶」という作品は特に見事で、その後皇室に買い上げられました。
☆涛川惣助(なみかわそうすけ):
東京を中心に活動していた七宝焼き作家で、無線七宝という技法を使っていました。同時期に活躍していた並河靖之と共に、二人のナミカワとして有名です。
涛川惣助の使った無線七宝とは、前述した有線七宝に使われた金属線を、釉薬を焼き付ける前に取り外し、輪郭線のない、日本画のような柔らかな絵柄の表現を可能とする技法です。彼は生涯日本画を七宝で表現することを目標にしており、独特の無線七宝によるぼかし表現や、有線七宝と無線七宝の技法をかけ合わせた奥行のある表現は、非常に高い評価を得ました。また代表作としては、当時の宮内庁から依頼され制作した、迎賓館の食堂の壁を飾る「七宝花鳥図三十額」が有名です。
上記の2名は当時、帝室技芸員にも任命されました。帝室技芸員とは、日本の特に優秀な工芸家や美術家に対し帝室から贈られる顕彰制度で、個人の栄誉を称えると共に各分野の伝統技術の保護等を目的として制定されたものです。明治23年から昭和22年まで選出が行われ、現在では文化勲章や人間国宝の認定といった形で受け継がれています。
明治の七宝焼きの名工として選出されたのはこの『二人のナミカワ』でしたが、その他にも部分的に釉薬を付着させて焼成する「盛上七宝」や、彫金の上から透明釉薬を焼き付ける「透明七宝」の技術を初めて使ったとされる川出柴太郎、服部唯三郎、安藤重兵衛らも今でも人気の高い名工たちです。特に安藤重兵衛は現在にも続く『安藤七宝店』の初代社長を務めており、戦後、「文化芸術に国境なし」として七宝業界の復興に尽力しました。