和骨董大辞典

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明治の工芸品 その5 ~彫刻~

 

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日本で彫刻は、生活用品や武具の装飾、また仏教における立像や建築物の為古くからその技術が使われてきました。小さいものでは根付や印籠、大きいものでは平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像や東大寺の金剛力士像、建築物では日光東照宮など、彫刻は多くの場面で活かされ現代にまで伝わっています。

しかし、様々な分野で腕を磨いた彫工師たちにも明治維新の影響は大きく、当時は他業種へ転換していく職人も少なくはなかったようです。そのような中でも制作に打ち込み技術を高めた彫工師の作品は、日本よりも長い歴史を持った西洋の彫刻作品に劣らない完成度となりました。

 

 

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こうして「彫刻」の分野も明治期に諸外国から注目された伝統工芸の一つとなっていきます。

 

 
明治期の彫刻家
 

☆高村光雲(たかむらこううん)

明治以前は仏師として、また明治以後は木彫の彫刻家として活躍しました。東京の浅草に生まれ、仏師の高村東雲の下で修業を積むと1874年から「高村光雲」の名を名乗り始めました。

当時、西欧諸国への輸出品としては象牙の彫刻に人気が集中していましたが、その中で光雲は木彫の作品制作を続けます。洋風文化が取り巻く中、西欧美術の素晴らしい写実性に驚愕した光雲は特に草花や鳥獣をメインに写実的な表現を追い求め、1893年にシカゴ万博に出品した『老猿』は、猿が大鷲と格闘した直後の緊張感を見事に表現し、重要文化財に指定されました。

その他代表作として、目の部分に仏像彫刻で用いられる「玉眼」という技法が使われた『矮鶏(ちゃぼ)置物』、また上野恩賜公園の『西郷隆盛像』などがあります。

 

☆安藤緑山(あんどうろくざん)

明治初期に浅草に生まれ、昭和初期まで活躍した彫刻家です。幼い頃に父を亡くし、金工家の養父の下、高校卒業後に象牙彫刻を習って独立しました。作品は果物や野菜など身近なものを表現した象牙彫刻が中心ですが、緑山の作品の特徴は象牙の色付けです。それまで牙彫においてはその白地の肌合いが重視されていたのに反し、緑山は色付けした象牙が見せる、色の滲んだ独特の味わいを好み、自らの牙彫に多彩な着色を施しました。繊細な技法を作品に施すことで、象牙でありながら本物に限りなく近い質感を作り出していた緑山でしたが、象牙の白地を重視していた当時では、残念ながら彼の作品が高い評価を得ることは多くなかったようです。

代表作には黄色い枝付きの梅を添えた『竹の子と梅』、『茄子』、『蜜柑』などがあります。

 

☆石川光明(いしかわこうめい)

明治時代に活躍した彫刻家です。浅草寺雷門を担当した宮大工の家に生まれ、幼い時に父を失ったものの、叔父から宮彫を習い、その後絵画や牙彫など工芸に通ずる多くの修行を続けました。1878年には同じく明治期の名工であった旭玉山と東京彫工会で研究を始め、その後国内の博覧会にて出品作の中から2点が妙技二等賞を受賞し、帝室技芸員、東京美術学校の教授など近代彫刻の発展に貢献します。また国外でもシカゴ万博で優秀賞、パリ万博で金賞を受賞するなど高い評価を得ました。

代表作にパリ万博に出品した『古代鷹匠置物』や、猪の毛の一本一本まで緻密に表現した『野猪』があります。

 

 

 

この3名の他にも、高村光雲に師事した山崎朝雲、幼い頃から象牙彫刻を学び東京美術学校の教授となった竹内久一なども明治時代に活躍した彫刻家として知られています。2名とも帝室技芸員に任命されており、山崎は岡倉天心を会長とした日本彫刻会を結成し、写実性を重視した木彫作品を制作するなどして文化功労者にも選出されました。また、竹内は東京美術学校の教授として古彫刻の修復や模刻、文展の審査員なども務めています。

 

 

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