和骨董大辞典

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有島生馬(ありしまいくま)

有島生馬(ありしまいくま)

 

明治前半から昭和末期にかけて活躍した画家で、兄の里見弴と弟の有島武郎は小説家、友人には小説家の志賀直哉や画家の児島喜久雄などがいます。雑誌『白樺』の創刊にも携わったことなどから、兄弟合わせて「白樺派三兄弟」とも呼ばれました。

 

 

 

有島生馬の歴史

 

1882年、神奈川県で大蔵省関税局長を務めていた父の次男として生まれました。横浜市にあった税関長官舎で誕生したと言われていますが、その土地柄もあってか有島生馬は洋学教育と武家出身の両親からの教育との和洋が入り混じった環境で成長しています。その後9歳の時には東京に移り住み、進学先の学習院初等科で志賀直哉や黒木三次と親交を深めました。ここでは文芸サークルを結成するなどしましたが、18歳の時に助膜炎を患った為、学校を中退。父の実家のある鹿児島で療養生活を送ることとなっています。

 

鹿児島では1年間暮らしましたが、この間有島生馬は書店で見かけた日本の古典文学、また現地の日本人神父に紹介された宗教美術にも感動し、イタリアで絵を学ぶことを夢見るようになります。そして療養明けした1901年より東京外国語学校にてイタリア語を専攻。在学中には小説家の島崎藤村の下で印象派画家カミーユ・ピサロの作品を目にしたことがきっかけで、画業を志すようになりました。やがて同校を卒業すると洋画家の藤島武治に師事するようになり、20代半ばの頃にはイタリアへの留学を果たします。現地では古典美術を学びながらヨーロッパを周遊し、またパリでは美術学校のグラン・ショミエールに通いながら藤田嗣治や梅原龍三郎などと交友を深めました。

 

1910年に帰国したのちは雑誌『白樺』にて、有島自身がパリで衝撃を受けた作家・セザンヌを先立って紹介しています。自身の制作活動では文展での入選、また二科展の結成や同年代の芸術家たちとの文化学院の創設など、後進の芸術家たちに大きな影響を与えた画家のひとりとして活躍しました。そのほか、フランスにてレジオンドヌール勲章を受章し、一水会の設立にも携わり、1964年、82歳の時には文化功労者となっています。

 

 

 

一水会(いっすいかい)

 

1936年に有島生馬や安井曾太郎、石井柏亭などの8名により創立されました。伝統的な西洋絵画の写実主義を重んじ、また安易でなく、洗練された技術を追求した芸術を目指す、という精神のもと作り上げられたと言われています。会名は中国の技法書からきており、「入念な作画態度を示す」という意味合いが込められているそうです。

 

 

 

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