和骨董大辞典

  • TOP
  • 和骨董大辞典

朝倉文夫(あさくらふみお)

 

明治前半に生まれ、昭和後期にかけて活躍した彫刻家です。「東洋のロダン」とも称されており、号には「紅塐」という名を使いました。

 

 

朝倉文夫の歴史

 

1883年に大分県の村長の息子として生まれた朝倉文夫は、10人以上の兄弟の中の三男だったこともあり、10歳になると親戚の養子として引き取られました。養子となった家の伯父は衆議院議員を務めるなど優秀な家柄でしたが、朝倉文夫は中学校の受験に3回も失敗した為、19歳の時に母によって、東京で暮らしていた兄のもとに行くことを勧められています。こうして上京した朝倉文夫でしたが、この兄が当時すでに彫刻家として活躍していた渡辺長男であったことがきっかけとなり、彫刻の道に進むことを決心しました。

 

兄の下で勉強に励み、1903年に東京美術学校の彫刻選科に進学を果たすと、朝倉文夫は作品制作とその練習に励んでいきます。暇さえあれば作品に向き合い、モデルを雇う代わりに上野動物園で動物のスケッチに励み、卒業までの4年間で1200以上の作品を作り上げました。この間には教授を通して貿易商の注文で像を制作したり、海軍省の募集した銅像作品に応募したものが見事一位になるなどし、学生ながらに徐々にその名を広めています。その後24歳で同校を卒業すると研究科に進み、都内にアトリエと塾をつくって指導にあたる一方で、文展に出品した作品が最高賞、翌年には3等の成績を収め、彫刻家としての実績を積み上げていきました。やがて27歳の時にはシンガポールとボルネオに向かう機会が訪れ、以降、朝倉この時の経験は作品制作にも活かされていったと言われています。

 

帰国後、朝倉文夫は文展への出品作品が連続して、政府の買い上げ作品となったり、3等賞、2等賞など高い評価を受け、1916年には文展で最年少の審査員に任命されるまでとなりました。それまでにも大正博覧会展での審査員を務めており、そのほか自身の作品制作も積極的に行い、38歳の時には東京美術学校の教授職に就いています。その後も晩年までに帝国美術院の会員や日展運営会の常務理事、日本芸術院第一部長など数々の要職を歴任しました。作品制作の面では戦前に早稲田大学にちなみ大隈重信像などを制作しましたが、世界大戦中の金属提出に従ってほとんどの作品が失われたと言われています。しかし、戦後も日展や各展覧会への出品を積極的に行い、61歳の時には帝室技芸員、東京美術学校を退職したのちには勲四等瑞宝章、65歳で文化勲章を受章するなど、長きにわたってその作品と表現力は評価されました。

そして1964年、81歳で息を引き取っています。

 

 

 

買取に関するお問い合わせ

ご相談やご質問など、まずはフリーダイヤルでお気軽にお電話くださいませ。
  • お電話でのお問い合わせはこちら tel:0120-424-030
  • メールでのお問い合わせ