和骨董大辞典

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杉山寧(すぎやまやすし)

 

明治時代末期に生まれ、平成初期にかけて活躍した日本画家です。

作品の題材には日本の風景の他、インドの風景やエジプトの遺跡など、日本画の主題としては斬新なものを取り上げたことでも知られています。

 

 

杉山寧の歴史

 

1909年、東京の文房具店で生まれた杉山寧は、地元の小学校を卒業後、19歳で東京美術学校に進学しました。在学中には、帝展に出品した作品が初出品かつ初入選となったほか、その翌年には特選に選ばれるなど早くもその才能を表し、日本画壇でも名を知られるようになります。24歳で同校を卒業したのちは、学生時代に師事した日本画家の松岡映丘が中心となる研究会に参加し、また1933年の帝展では出品した『海女』で卓越した画力を見せ特選に選ばれました。同年、松岡映丘のもとにいた日本画家の高山辰雄や山本丘人らと日本画の刷新を目指した“瑠爽画社”を創設し、全3回ではありましたが銀座にて展覧会を開催するなどしています。

 

30代前半の頃には中国大陸を旅し、5世紀ごろに創られたと言われる雲岡石窟に2週間以上滞在。石仏の素描に没頭しました。やがて戦後に通称日展と呼ばれる文部省主催日本美術展覧会が出来上がると、当初は出品依頼が来ても応えずにいたものの、1951年にはギリシャ神話を題材とした大作を出品し、以降50歳頃から約20年に渡って参加していきます。また、この出品と同年に、杉山寧と同じく東京美術学校を卒業した東山魁夷や山本丘人をはじめとする画家たちが美術団体“未更会”を結成し、杉山寧もこれに参加。日展を始め多くの団体に所属し、制作活動を行っていきました。

 

この頃から雑誌の「文藝春秋」の表紙絵を担当するようになり、この制作は1956年から1982年にかけて続けられています。自身の制作活動も並行して行い、1957年には日展出品作が日本芸術賞を獲得したほか、この50代頃から70代にかけての間には沖縄、エジプト、トルコ、ヨーロッパなどを相次いで訪れ、各地の動植物や遺跡などをもとに異国情緒のある幻想的な作風を確立していきました。この間、65歳の時に文化勲章を受賞し、また1982年には日本芸術院の第一部長などの要職も務めています。

以降も晩年まで各地の美術館で個展の開催を行い、1993年、84歳で息を引き取りました。

 

 

 

松岡映丘(まつおかえいきゅう)

 

明治前半から昭和初期にかけて活躍した日本画家です。兵庫県の生まれで、医師の父を始め4人の兄を持ち、松岡鼎、井上通泰、柳田國男、松岡静雄とそれぞれ医師や歌人、学者として著名な兄弟の中で育ちました。松岡映丘自身は幼少期より絵を好み、知り合いの絵師に師事して東京美術学校の日本画家をトップの成績で卒業。その後高等女学校などで教壇に立ちながら官展に作品を出品したほか、自身も好んだ大和絵の復興に携わったり、昭和天皇に記念絵画を納めるなど当時の日本画壇の代表的画家のひとりとして活躍しています。

晩年は国画院の創設や帝国芸術院の会員を務めるなどし、1938年、56歳でこの世を去りました。

 

 

 

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