和骨董大辞典

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村山槐多(むらやまかいた)

 

1890年代から1910年代にかけて活躍した洋画家です。絵画以外にも作家や詩人としての才能も発揮しました。親族には明治から昭和前半にかけて活躍した洋画家の山本鼎や、随筆家で、黒柳徹子の母としても知られる黒柳朝がいます。

 

 

 

村山槐多の歴史

 

 

愛知県で生まれた村山は、幼少期に小学校の教諭をしていた父の転勤に伴い京都へ移住しています。ここから中学卒業までを京都で過ごしていますが、この間にはフランスの詩人・ボードレールや、同じくランボーの作品を読み、自身も詩の制作を行っていました。また、中学2年生になるころにはいとこである山本鼎から影響を受けたことをきっかけに、真剣に芸術家を志すようになったと言われています。

体が弱く、当時から肺炎を患っていた村山槐多でしたが、中学卒業後は画家を目指すため上京し、洋画家の小杉放庵のもとで下宿生活を送り始めました。絵画の学習は日本美術院洋画部の研究生として行い、同年、第一回の二科展に出品した『庭園の少女』が早くも初入選を果たしています。また、翌年にも日本美術院展覧会にて出品作品が院賞を受賞するなど実力を示していきました。

 

やがて20歳の頃になると下宿先を小杉の下から根津へと移しています。ここで出会った「おばさん」と呼ばれる女性やその夫、そしてモデルを務めていた「お玉さん」は村山の作品の主題としても取り上げられており、特にこの女性二人には、村山が想いを寄せていたと言われています。その代表作品としては『湖水と女』、「おばさん」の夫を描いたとされる『のらくら者』が挙げられ、『湖水と女』は村山が根津へ下宿先を転居した翌年に開かれた日本美術院試作展で奨励賞を受賞しました。また、翌年の同展でも出品作品が奨励賞を受賞しています。

その後、1919年の初頭に開催された日本美術院試作展では『自画像』を含めた8点の作品を出品し、美術院賞乙賞に選ばれました。しかしその直後、当時流行していたスペイン風邪にかかった村山は体調を大きく崩し、22歳で息を引き取っています。

 

 

 

シャルル=ピエール・ボードレール

 

19世紀半ばのフランスで活躍した詩人です。実父は幼い頃に亡くなり、母が再婚した軍人の義父との間で育ったボードレールは、高校までは優等生として伝えられているものの、その後は実父の遺産で身分不相応にう贅沢な生活をしていました。詩の制作はこの間に行われ、20代半ばの頃にはフランスのサロンにも参加しています。美術評論家としても活動し、その後の“詩人による評論”という立場を作り上げた人物でした。

代表的な作品には『悪の華』があり、アンニュイ、陳美的、などと表現される同作品は後世にも大きな影響を与えています。

 

 

 

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