和骨董大辞典

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松本楓湖(まつもとふうこ)

 

江戸後期、天保の時期に生まれ、大正時代後期にかけて活躍した画家です。

“楓湖”は号であり、作品は歴史画を得意としました。また、のちに大家となる多くの日本画家達の師としても知られています。

 

 

 

松本楓湖の歴史

 

 

1840年に、現在の茨城県にあたる常陸国で生まれました。父は漢学も学んでおり漢方医をしていたため、周辺の子供たちの先生としてもしたわれていたと言われています。この父は当初松本楓湖が絵師となることに反対していましたが、幼少期から絵を好んで描いていた松本楓湖は、通常描くのが難しいと言われている左向きの顔も上手に描くことが出来ました。それがきっかけとなり、松本楓湖はのちに父にもその願望を認められ、10代前半の頃に絵師を目指して上京しています。

そして江戸へ出てきてすぐの頃、浮世絵師として有名な歌川国定に門弟となることを断られ一時は故郷に戻りましたが、その約2年後、13歳の時には再び江戸へ訪れ、鳥取藩で御用絵師をしていた絵師に弟子入りを果たしました。師の名前は沖一峨(いちが)といい、多数の流派の絵を学び花鳥画を得意としていた絵師です。松本楓湖はこの沖一峨から、華麗な色遣いをはじめとした画法を学び、1855年には故郷の寺の本堂の天井画を描くまでに成長しました。そして翌年、師が亡くなると、今度は滋賀県の御用絵師の画塾に入門し、指導を受けています。

 

その後、約5年もすると塾頭となりましたが、同時期から尊王運動にも参加し、水戸の藩士たちと剣術を磨くと、1864年には尊王攘夷派の1人として天狗党の乱に参加しました。一方でこの間も天皇に尽くす勤皇派の画家として活動しており、天狗党の乱に敗れると再び江戸で絵を描くことに打ち込んでいきます。

 

20代後半になると、自身が手本にもしていた伝記集である『前賢故実』の作者、菊池容斎への弟子入りが叶い、この頃から自身の号を“楓湖”としたと言われています。以降は絵師として国外へ輸出する貿易品としての七宝焼きの下絵描きや、宮内省から出された教科書、全七巻の挿絵の制作などを行いました。特にこの教科書の挿絵制作は、同時期に活躍した五姓田芳柳や月岡芳年などが制作者候補に挙がる中で松本楓湖が選出され、60を超える図を制作したこともあり、松本楓湖の代表作のひとつとして知られています。50代後半からは日本美術院の設立に携わったほか、文展の審査員を初回から4回連続して務め、1919年には帝国美術院の会員となるなど要職を歴任。展覧会にも出品を続け、30代後半から開いた画塾からは速水御舟、高橋廣湖、森作湖仙など多くの画家を出しました。

 

やがて1923年、82歳で息を引き取っています。

 

 

 

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