和骨董大辞典

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柿右衛門(かきえもん)と濁手(にごしで)

柿右衛門とは、江戸時代から製造されていた有田焼の陶工の名前です。「酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)」の名で現在十五代目まで続く家系であり、初代柿右衛門は、日本で焼成に成功した有田焼の白磁への上絵付けに、初めて成功した人物とも言われています。

図柄には赤や黄の暖色の絵具で花鳥図が描かれることが多く、「岩梅に鳥」、「竹に虎」、「紅葉に鹿」などの絵柄がよく見られます。

 

 

柿右衛門の名が広まることとなったきっかけは、元々陶磁器を制作していた酒井田円西が、有田で良質の白磁材料が発見されたことを機に有田に移り住んだところからだと言われています。ここで円西と息子の喜三左衛門が有田の磁石を原料に染付や白磁の制作を行う内、喜三左衛門が赤絵磁器の製造に成功します。さらに「濁手(にごしで)」と呼ばれる独特の地肌の色は米のとぎ汁のような乳白色をしており、それまでの磁器の地肌が青みがかったものであったのに対し純白に近い色合いのものでした。そのため描かれた色絵をより引き立たせ、濁手は柿右衛門窯の代表的な特徴として知られています。

 

 

こうして濁手と繊細な絵付けを得意とした柿右衛門窯の作品は、江戸時代初期には高い人気を博し、他の有田焼の作品と共にヨーロッパへ大量に輸出されました。

真っ白な磁器の製造方法がまだ開発されていなかった当時のヨーロッパでは、このように日本や中国から輸入された白磁を手本とした白い洋食器が製造され、中でも柿右衛門窯の作品は「柿右衛門写し」「柿右衛門様式」と呼ばれる代表的模様のひとつとして流通するほどとなります。

 

しかし、国内では江戸時代後半になると絵具だけで彩色を施していた柿右衛門様式に対し、金を用いることで豪華絢爛な仕上がりとなる金襴手が流行し始めました。さらに中国磁器の流通や有田焼の海外輸出量の低下などが重なり、元々制作が困難であった濁手は途絶えることとなったのです。

 

 

 

この濁手が復活したのはそれから明治・大正を過ぎた昭和28年のことです。十二代、十三代の柿右衛門が、酒井田家に伝わる「土合帳」などの資料を読み研究を重ね、ようやく復元に成功しました。

その後柿右衛門の製陶および絵付け技術は無形文化財に選ばれ、昭和46年には「柿右衛門製陶技術保存会」が、柿右衛門濁手の人間国宝として認定されています。

 

 

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