明治後半に生まれ、昭和後半にかけて活躍した版画家です。
独学で学び、のちに国内外で名を馳せる著名人となった近代美術の代表的存在です。
棟方志功の歴史
1903年に青森県で生まれた棟方志功は、鍛冶職人を営む家の三男として生まれました。幼い頃に寒さの厳しい地域で育ったため、日常的に囲炉裏の近くにいることが多く、煤の悪影響で視力が低下し近視に悩まされたと言われています。小学校から卒業後にかけては実家を手伝いながらも武者絵や青森のねぶたを描くことに熱中し、17歳になって給仕として働き始めると、休日には屋外で写生を繰り返すなど独学で絵画を学んで、絵画への興味を深めていきました。その後18歳になると同じく絵に興味を持っていた地元の友人たちと共に、青光社と名付けた会で洋画を発表する場を作ったほか、別個で演劇や文学を研究する会も作り、上演や朗読などを行ったと言われています。
このように青森でも多くの活動を行っていた棟方志功でしたが、20代になるとさらに絵画への理解を深めるため上京。知り合いの家に下宿しながら展覧会に出品を続け、翌年白日会に油彩画を出品し入選しました。それからしばらくは出版社に務めますが、以降落選を繰り返しながらも制作活動は続け、1928年には帝展で初入選を果たします。この受賞作は前作同様に油彩画でしたが、棟方志功は同時期に版画家の平塚運一と知り合い、また川上澄生の作品に感銘を受けたこともあって、この頃から版画家としての道を歩み始めました。
当初は平塚運一をはじめとした版画家たちと共に版画誌に同人として参加し、さっそく展覧会に出品。春陽会展で3作が入選作品に選ばれると、翌年には画家仲間と共同生活をしながら、自身は版画の制作を熱心に行っていきます。さらに翌年、1930年には国画会展に出品した版画作品4点すべてが入選し、また同年結婚をしたこともあり、文化学院で美術講師として教壇に立ち始めました。
以降は主に版画家としての活動が目立っていき、28歳の時に初めて個展の開催に成功すると、版画集の刊行や国画会での奨励賞受賞、制作作品がアメリカやフランスの美術館の買い上げになるなどしています。また、1936年には雑誌で学者の柳宗悦や、陶芸家の河井寛次郎が棟方志功について取り上げた文章を掲載したことで、棟方志功の名が大々的に広まり、棟方志功の後援会も発足。戦時中も小説の挿絵や版画集の出版、作品展への出品を続け、終戦直後の日展では岡田賞を受賞しました。49歳の時にはニューヨークで初めての個展を成功させるなど国内外での活躍は続き、イタリアの国際美術展での国際版画大賞やアメリカの大学での講義など幅広く活動しています。
晩年は文化勲章者としても認められ、極度の視力の衰えがあった後も制作活動に励み、1975年、72歳で息を引き取りました。