明治元年に生まれ、昭和中ごろにかけて活躍した画家です。
師とした岡倉天心や、後輩にあたる菱田春草らと共に新しい作風の日本画の普及に努め、文化勲章を受章しました。
横山大観の歴史
1868年に茨城県の藩士の家に生まれました。その後10代前半の頃に家族で上京し、都内の中学卒業後、東京英語学校へ進学。同時期に洋画家から鉛筆画を学んだことがきっかけとなり、徐々に美術に興味を持つようになります。在学中には母方の“横山”の姓を継ぎ、卒業後は東京美術学校入学を目指して結城正明など日本画家たちに指導を受けました。この時点で準備期間が数ヶ月しかない状況でしたが、横山大観はほかの大勢の受験者が著名な師に学んで鉛筆画を受験すると聞くと、直前で受験科目を毛筆画に変更。そして見事一期生として合格を果たしています。
在学中は同級生に下村観山などがおり、岡倉天心をはじめとした教師陣に指導を受けました。卒業後、美術予備校の講師を経て京都の美術工芸学校の教師に就任。仏画を主とする古美術作品の研究を行っていましたが、翌年、28歳の時には母校である東京美術学校に助教授として招かれています。一方で自身の作品制作も行っており、東京美術学校就任と同年の共進会展には、連続で出品した2作がどちらも受賞作品に選ばれました。
やがて横山大観の師でもあり、当時東京美術学校の校長を務めていた岡倉天心が、考え方の違いから周囲の反感を受け辞職すると、横山大観もこれに習い辞任。その後は岡倉の開いた日本美術院で活動し、いわゆる“新しい日本画”の創造に打ち込んでいきます。輪郭線を大幅に削った「朦朧体」の画法を生み出すと、当初国内では批判を浴びたため、インドやアメリカ、ヨーロッパなど国外の世界各地で展覧会を開き、高評価を得ていきました。帰国後も日本画の研究は続け、1907年に開始された文展では数回に渡り審査員を務めています。大正期には日本美術院の再興に尽力したほか、同展への出品も行い、日本画家としての自身の地位を築いていきました。
昭和になるとこれらの功績が評価され、皇族へ献上する御用画の制作や、朝日文化賞を受賞。そして1937年には、第一回の文化勲章を受章しています。また帝国美術院の会員も務めたほか、戦後は文化功労者としても認められました。
晩年まで文展や院展、そして展覧会にも作品を出品するなど積極的に活動し、1958年、89歳で息を引き取っています。