江戸時代後期、天保の時期に生まれ、明治末期にかけて活躍した画家です。
日本画家として知られ、東京美術学校の設立にも携わりました。
橋本雅邦の歴史
1835年に現在の埼玉県に生まれた橋本雅邦は、父が狩野派の絵師として藩の御用絵師をしていた影響もあり、幼い頃から絵を学んでいました。父から学び始めたのはわずか5歳で、12歳になると本格的に指導を受ける為、画家の勝川院雅信に師事。ここでは5歳以上の年の差がありながら狩野芳崖と意気投合して親交を深め、20代前半になる頃には2人で塾頭となり、周りからは“勝川院の竜虎”、そして同門の絵師、木村立嶽や狩野勝玉と並ぶと“勝川院門下の四天王”などと称されていきます。
やがて25歳の時には号・雅邦を受けて独立を許可され、間もなく結婚しますが、以降は絵師の需要も高くはない風潮の中で明治維新の強い混乱も受け、さらには火災で財産を失うなどの苦しい状況に陥ることとなりました。この間に妻は精神的な病になり、1871年には橋本雅邦自身も仕えていた藩がなくなったことで、一時は絵師の職から遠ざかっていきます。廃藩置県後には海軍兵学校に勤務して製図を担当するなどして生活し、この間には日本画家でありながら油彩画を描かざるを得ないこともありました。
しかし、40代前半の頃に同門であった狩野芳崖が上京してくると、少しずつ状況が変化していきます。橋本雅邦は上京してきた狩野芳崖と共に再び切磋琢磨し、新しい日本画の表現について探求するようになり、1882年に開催された展覧会では出品作が高評価を獲得。これによって徐々にその名が広まった一方で、2年後にはアーネスト・フェノロサの開いた鑑画会で作品制作を進めていきました。
そして50代になった頃、海軍兵学校を辞め、本腰を入れて美術に携われるようになります。文部省にも出入りし、岡倉天心やフェノロサの指導の下で準備を勧め、東京美術学校の創立メンバーとなったほか、開校後には絵画科で教壇に立つなど後進の教育にも尽力。また同年、内国勧業博覧会への出品作が妙技一等賞を獲得し、この作品は現在重要文化財となるほどの代表作となっています。
さらには第一回の帝室技芸員に選定され、60代の頃には岡倉天心らと共に日本美術院の創設に参加。東京美術学校では横山大観や菱田春草、川合玉堂に指導を行いましたが、この日本美術院に所属した期間も、後身への指導は続けていたと言われています。自身の作品制作においても、パリ万博で銀賞を受賞するなど西洋画の要素も取り入れた新しい日本画の表現を確立しました。
そして1908年、73歳で息を引き取っています。