和骨董大辞典

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正宗得三郎(まさむねとくさぶろう)

 

明治中頃から昭和中頃まで活躍した洋画家です。フランスの画家のアンリ・マティスにも教えを受け、二科会では重鎮として知られました。また、兄弟も優秀で、兄の白鳥は小説家、敦夫は国文学者、弟は植物学者の厳敬として知られています。

 

 

 

正宗得三郎の歴史

 

岡山県で生まれた正宗徳三郎は、19歳の時に日本画家を目指して上京し、日本画家の寺崎広業に絵を学び始めました。しかし同年に東京美術学校に入学し、西洋画を学んでいます。在学中、学友には青木繁や山本鼎などがおり、特に青木繁とは生活を共にし、青木の死後は『青木繁画集の』の編纂に尽力しました。やがて1907年には同校を卒業すると、白馬会や文展に出品し、26歳の時に文展にて入選を果たしています。

 

さらに30代の頃からは文展における二科設置運動に加わり、二科会が設立されると、同会の会員として名を連ねました。また、この間1914年からは、西洋画を学ぶため何度かに分けてヨーロッパへ渡っており、モネやルノアールの作品のほかアンリ・マティスには直接教えを受けたといわれています。

さらに並行して二科会への出品も行い、1916年の二科展にはヨーロッパで制作した30点を超える作品群を出品して注目を集め、その後も約30年近くにわたって出品を続けました。

 

戦後、二科会が解散すると、60代半ばの頃に熊谷守一や黒田重太郎らと第二紀会を創立しています。二科会に引き続き同会でも重鎮として活動しながら、文人画家の富岡鉄斎の研究も行い、病によって床に伏している最中にはその成果をまとめた著書を発表しました。

 

やがて1962年、79歳で息を引き取っています。

 

 

 

二紀会 (改名前:第二紀会)

 

第二次世界大戦後、民主主義の時代が到来した日本で文化国家を目指すべく、前述した熊谷守一や黒田重太郎、そして正宗得三郎らをはじめとした9名で設立されました。当時一時解散状態となった二科会を第一期とし、第二の会という意味を込め、当初は「第二紀会」という名でスタートしたといわれています。

 

のちに法人化された際に社団法人「二紀会」と改名されましたが、現在でも一般社団法人として創立当時の精神を崩さずに活動が行われています。

 

 

 

アンリ・マティス

 

19世紀中ごろから20世紀中ごろにかけて活躍したフランス人画家です。原色を多く使用した激しい色彩とタッチが特徴的なフォーヴィスムの代表的な画家として知られており、日本でも人気があります。油彩画以外にも切り絵による作品も多く残しており、花や鳥などの動植物から強いインスピレーションを受けた作品を多く残しました。

 

 

 

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