昭和前半に生まれ、平成前期にかけて活躍した芸術家です。
画家、版画家として以外にも、映画の監督や小説家としての才能を発揮し、多方面で活躍しました。
池田満寿夫の歴史
1934年に満州国でうまれた池田満寿夫は、第二次世界大戦終戦後、1945年に長野へ移住し学生生活を送るようになります。高校に進学すると、在学中に制作した絵画が入選したことがきっかけで画家を目指すようになり、18歳の時には上京して東京芸術大学を受験。3回ほど挑戦して残念ながら合格には至りませんでしたが、似顔絵作家をしながら制作した作品が自由美術家協会展で入選作に選ばれました。
その後20歳の頃に美術団体の結成に携わったことで芸術家の瑛九と知り合い、彼からの勧めで色彩銅版画の制作や、デモクラート美術家協会の会員になるなど、活動の幅を徐々に広めていきます。23歳の頃には美術評論家の久保貞次郎からの支援も得、東京国際版画ビエンナーレで初入選し、さらに3年後の同展では出品作がドイツの美術評論家の目に留まり、文部大臣賞を獲得しました。1962年には東京都知事賞を受賞し、芸術家としての名を広めていきます。以降は国外にも活躍の場を広め、ニューヨーク近代美術館にて日本人で初めて個展の開催を行い、ヴェネツィア・ビエンナーレに数多くの版が作品を出品し国際大賞を得るなどしました。この間には前述の東京国際版画ビエンナーレで国立近代美術館賞を受賞したほか、ヴェネツィア・ビエンナーレの翌年には第17回芸術選奨文部大臣賞にも輝いています。
この頃にはヨーロッパやアメリカなど世界各地を転々としながら制作活動を行い、官能的な女性像を主題とした緻密な作品を多く手がけたため、のちに“エロスの作家”とも呼ばれるようになっていきます。また版画だけでなく、日本に帰国したのちは文学の世界にも興味を深め、43歳の時には小説作品『エーゲ海に捧ぐ』が芥川賞を受賞。この作品はのちに映画化され、挿入歌は池田満寿夫が歌詞を担当するなど、池田満寿夫自身も多方面で活躍するきっかけともなりました。そのほか水彩画や陶芸作品も手がけ、1965年にはアメリカの陶芸家ピーター・ヴォーコスと親交を深めたり、晩年に制作した般若心経を立体的に表現することを試みた般若心経シリーズは、池田満寿夫の代表的作品群のひとつに数えられます。50代の頃からはテレビにも出演し、タレントとしても活躍。生涯にわたって精力的に活躍しましたが、1997年、息を引き取りました。