和骨董大辞典

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津田信夫(つだしのぶ)

 

明治初期から昭和半ばにかけて活躍した工芸作家です。

鋳金による作品を得意とし、長きにわたって東京美術学校に務めたほか、国外でも活躍しました。

 

 

津田信夫の歴史

 

1875年、千葉県の佐倉藩で医師を務める家に生まれた津田信夫は、地元の学校を卒業すると、20歳の頃に東京美術学校に進学しました。在学中には鋳金を学び、卒業後は同校で働くこととなります。それからは長きにわたって後進の育成に携わり、自身の卒業から約2年で助教授、また40代中頃には教授となりました。

この間には、教壇に立つ一方で自身の作品制作も行っており、浅草や日比谷、日本橋をはじめとした公共施設にある金工品を多く制作し、日本の近代化の一端を担っています。やがてこれらの功績が認められたこともあり、1923年、文部省の指示を受けてヨーロッパへ留学する機会を獲得。フランスをはじめとしてオランダやギリシャを含んだヨーロッパ諸国をおよそ3年間かけてめぐり、当時現地で流行っていたアール・デコ様式などを学びました。また1925年に行われたパリ万博では日本代表の審査員も務め、同年帰国しています。

 

その後、日本では帝展にて工芸部門設置の実現を目指して尽力し、1927年に同部門の設置が成されると委員や審査員を務めたと共に、ヨーロッパで学んだ工芸と美術の思想を広め、高村豊周や山本安曇などをはじめとする日本の若手作家たちに影響を与えました。また、フランスと日本の文化交流にも貢献し続け、50代の頃にはフランスから勲章を贈られ、日本でも芸術院会員、また工芸技術講習所の教授となるなど要職を歴任しています。晩年には勲四等瑞宝章を授かり、1946年、71歳で息を引き取りました。

 

 

 

アール・デコ

 

アール・デコは、20世紀前半にヨーロッパ、またアメリカのニューヨークで流行した装飾様式の一種です。津田信夫も日本代表として審査員を務めたパリ万博が、「アール・デコ」の名と流行の発端といわれています。当時の人々の生活と時代が、自動車や飛行機などをはじめとしたものを導入したことで機械的かつ先進的なものになっていく風潮を受け、余計な装飾を除いた幾何学的な形状が特徴とされています。一方で異国風の表現や、絵画の分野で言えばキュビスムや未来派などの表現が混合した面もあり、近代化と共に流入した各地の文化を取り入れた幅広い表現も見られます。

 

建築や絵画、ファッションなど多くの分野にその様式は取り入れられ、工芸でも金属、ガラス、陶芸と幅広く受け入れられました。

 

 

 

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