浅井忠(あさいちゅう)
1856年に生まれ、生き生きとした風景画を描くことを得意とした洋画家です。40代からは後進の育成に励みました。
浅井忠の歴史
江戸時代末期、東京で佐倉藩士の長男として生まれた浅井は、父の死を機に7歳の若さで家督を継ぐこととなり、千葉県の佐倉藩に移住しました。当時から絵に強い興味を持ち、8歳からは佐倉藩の御用絵師であった黒沼槐山より花鳥画などを習って「槐庭」の号を与えられています。このように早くからその才能を発揮していた浅井ですが、絵画の他にも経書や書道など様々な学問に優れていたため、本格的に洋学に目を向けたのは16になった頃からでした。浅井は藩校を卒業後、上京して英語を学び始めたことをきっかけに再び絵画にも興味が湧き、画家の国沢新九郎の洋画塾「彰技堂」で油絵を学びます。そして20歳になると、武家であった周囲の反対を押し切り、日本初の美術教育機関であった「工部美術学校」に進学しました。
在学中は画学科に入り、イタリアからの推薦で派遣されていた画家アントニオ・フォンタネージから西洋画を学びました。ここで培った西洋美術の知識と油彩画の技術は画家としての浅井の基礎となり、当時の日本では珍しかった裸体のデッサン、木炭の使い方から風景画、遠近法の画法などを一から学んでいます。フォンタネージから多大な影響を受けた浅井は、体調を崩したフォンタネージの後任の教師に満足できず、同胞の画家たちと工部美術学校を退学しました。やがてその画家たちと美術団体「十一会」を立ち上げましたが、西洋画排他の思想が高まる時代の流れに苦しみ、仲間たちが画家となる道を諦めていく中絵画の研究を続けます。その努力の結果、33歳の時に洋風美術団体「明治美術会」を創設し、39歳になった頃には内国勧業博覧会で妙技二等賞の受賞を果たしました。
自身の画家としての名が広まっていく中、浅井は東京美術学校の教授となり、44歳の時西洋画の研究の為フランスへ渡っています。約2年間の滞在中にもパリとその郊外を題材とした作品をいくつか制作し、帰国後は京都に移住し、再び教壇に立ちながら後に関西美術院となる聖護院洋画研究所を立ち上げるなど、西洋画の普及と後進の育成に力を注ぎました。その後51歳で息を引き取った浅井ですが、京都にいる間は油彩画の他にも、陶磁器や刺繍などの工芸品の図案制作なども行い、最期まで芸術活動に励んでいたようです。
アントニオ・フォンタネージ
1818年にイタリアで生まれた画家です。美術学校で風景画を学び、その後壁画や舞台装飾を制作するようになりましたが、戦争をきっかけに30代からはスイスへと移住しました。やがてフランスやイタリアの各地を転々としながらロマン主義、印象主義の作品に大きな影響を受けていきます。
50代になるとイタリアの王立アルベルティナ美術学校にて教壇に立つまでとなり、そして58歳の時に、明治政府に雇われ日本に招待されました。滞在期間は約2年間と短かったものの、浅井忠や小山正太郎を始めとした画家たちに本格的な美術指導を行い、帰国後も美術教師を続けています。