江戸中期、延享の時代に活躍した文人画家です。
岡山県の鴨方藩の藩士でもありましたが、書画や、特に琴に熱中していたといわれています。
浦上玉堂の歴史
1745年、浦上玉堂は岡山県にある鴨方藩で、四兄弟の末っ子として生まれました。生家は戦国大名の血筋と言われていましたが、第四子だったこともあって両親は父が50代半ば、母が40代と高齢で、浦上玉堂がまだ10歳に満たないうちに父が死去。また兄姉たちも早くに亡くなっていたこともあり、浦上玉堂は7歳の時に家を継ぐこととなっています。10代半ば頃からは藩主のそばで真面目に公務に努め、昇進を重ねて20代後半の頃に結婚。30歳を過ぎた頃には第一子が生まれました。
こうして若くして家督を継いだ浦上玉堂でしたが、当時の武家は武術を極めるよりも学問や書画、楽器などの能力を重視する面があり、藩に仕えた人々もその教養を競い合い、浦上玉堂自身もその一人だったと言われています。中でも特に七弦琴を得意としており、藩主に仕え、儒学を熱心に学ぶ一方で、琴には殊更に夢中になり、20歳を少し過ぎた頃には人に教えるほどの腕前となっていました。そのため、浦上玉堂が絵に興味を持ち始めたのは結婚後、子供が生まれた頃のことで、江戸での勤務中に南画家の谷文晁などと交流して中国画を学び、研究や模写を繰り返していきます。また、第二子が生まれる少し前でもあった35歳頃には、江戸に滞在中に中国の古い琴“玉堂琴”を手に入れ、これをきっかけに自身の号を玉堂としました。
その後は藩士としても昇進しながら琴の制作も手掛けるようになり、自身で琴を弾いて演奏した催馬楽(さいばら)という歌が流行するなど琴の名士としてもその名を広めています。また前述の谷文晁や菅茶山などの文人とも交流を深めたことで、漢詩を含めた学問や書画についての知識も豊富になっていきました。ですが40代になると、時代の移り変わりに合わせた役人の見直しが行われ、職を辞めさせられる事態に陥ります。しかしながら浦上玉堂はこれをきっかけに趣味に打ち込むようになり、在職中のような豊かな暮らしは叶わなかったものの、元からあった文人や絵師たちとの繋がりを続けていきました。
琴では『玉堂琴譜』を発表した一方で、絵の方ではそれまで模写を繰り返していた中国画、特に南画の画法を吸収し、自身の作風の形成に役立てていますが、41歳、また47歳の頃にそれぞれ母、そして妻を立て続けに亡くしたことは非常に大きな転機となっています。
まもなく50歳になった浦上玉堂は、脱藩。息子2人と共に諸国を巡るようになり、まずは岡山から関西地方へ移り、南画家の田能村竹田とは一ヶ月以上共に住むなど深い親交を結びました。その後は2~3年をかけて関東や東北地方も周ったと言われており、60代半ばで再び京都を訪れた頃には、浦上玉堂独特の作風が活かされた山水画が注目され始めています。それからは京都に腰を落ち着け、代表作を生み出し、画家として注目を集めていきました。
そして1820年、76歳で息を引き取っています。
浦上春琴(うらかみしゅんきん)
浦上玉堂の息子、長男にあたります。1779年に岡山県に生まれ、父から書画についての指導を受けていたと言われています。玉堂について脱藩する以前より絵の才能には秀でており、その後は周遊の途中で父とは一時的に離れ、長崎や江戸で古い書画を学びました。
父の玉堂は山水画を得意としていましたが、浦上春琴は同じく山水画のほかに花鳥画にも優れており、同時代の文人画家たちとは腕を競うほどだったと言われています。一方で書画の他にも詩文や七弦琴も嗜み、著書『論画詩』の出版、さらに焼き物や書画鑑定においても才能を表すなど多彩に活躍しました。
文化人たちとの交流も良くし、晩年も積極的に作品制作に打ち込んだと言われています。
浦上秋琴(うらかみしゅうきん)
浦上玉堂の次男、浦上春琴の弟にあたります。1785年に生まれ、玉堂と兄と共に脱藩したのは浦上秋琴がわずか10歳の時でした。春琴と同じく、父の玉堂から絵の技法を学んだ一方で、玉堂が旅の最中で会津藩に招かれた際には、最終的に父に代わり浦上秋琴が同藩の音楽方として仕えたほどに、音楽の才能にも優れています。
このきっかけとなった会津藩からの招致は、会津の神社で受け継がれる神楽の再興のため、当初は琴の名手であった玉堂が着手していたもので、1年ほどで復興が叶い玉堂が会津を後にした時、それを支えていた浦上秋琴が音楽方として会津藩に仕えるようになったと言われています。その後浦上秋琴は各地で音楽の修行に打ち込みますが、絵の才能も衰えることはなく、晩年はよく作品の制作に打ち込みました。