渡辺省亭は江戸時代末期、嘉永に生まれ、大正時代半ばにかけて活躍した画家です。
日本画の中に西洋の表現技法を取り入れ注目を集めました。“省亭”は号のひとつです。
渡辺省亭の歴史
1852年、秋田藩で支給する米の仲介役・礼差を務めていた父のもとに生まれました。通称は良助と呼ばれていたといわれています。良助の母は、もとは良助の父の友人の妻であり、未亡人となった際に良助を生んだため結婚はしておらず、そのため良助は父の生家の吉川家で生活していました。しかし、幼くして父が亡くなると、その後は兄の元を経て東京で奉公人となっています。この奉公先で描いた絵が非常にうまかったことがきっかけで、良助は16歳の時に家族にも薦められ絵師となる為の弟子入りを決意しました。
渡辺省亭(良助)は当初、漆工作品でも名を知られている柴田是真の元を訪ねましたが、作品をみた柴田是真の判断によって、絵師の菊池容斎に師事することとなっています。入門後3年間はひたすら習字、また、その後は自身の画風の確立のため師の真似はさせない、という厳しい修行に耐えますが、入門してから約4年が経ったある日、突然破門を言い渡されました。強制的に自立することとなった渡辺省亭でしたが、以降も独学ながら絵の修行を続けていると、20歳を過ぎた頃、菊池容斎に呼び出され、当時の東京都知事に依頼された品の共同制作を任されることとなっています。
また、明治初期であった当時に日本と西欧諸国の貿易が盛んになると、輸出用の美術品のひとつとして無線七宝などの見事な七宝作品を生み出していた濤川惣助の作品の下絵を担当するようになりました。この時の経験が、その後渡辺省亭が西洋に受け入れられる作品を制作するうえでの土台を形作ることとなり、以降は国内でも内国勧業博覧会で高い評価を受けたほか、パリ万博でも銅牌を得ています。また、これらの評価は間もなくして出発したパリ留学決定にも繋がりました。
現地での滞在は2~3年でしたが、この間に渡辺省亭は印象派を中心とした画家たちや出版業者などと交流し、影響を受けています。帰国後はよりいっそう制作活動に励み、各展覧会への出品と受賞を繰り返していきました。また国内では、翻訳された洋書や小説、雑誌などの挿絵を多く担当するようになり、自身の優れた写実表現とその技法を世間に知らしめたほか、編集なども行っています。
生涯ほとんど弟子を持たず、作品は西洋人に好まれたため、多くは海外の美術館に保管されていますが、パリ留学以外は日本で過ごし、1918年、68歳で息を引き取りました。