源内焼は18世紀、現在の香川県さぬき市で平賀源内の指導の下焼かれた陶器です。
釉薬を使って焼かれたやきもので、中国の三彩と同系統の褐色、黄色、緑色などで装飾されます。
源内焼の歴史
源内焼きの始まりは江戸時代前期の1755年頃だと言われています。きっかけは1753年に源内が医学の修行のため長崎へ1年間遊学した際、広島県福山市で陶土を見つけたことです。源内はその土地に製陶を勧めましたが受け入れられず、遊学先の長崎でも出島で海外から輸入された陶磁器が高級品として扱われるのを目の当たりにし、優れた陶土を用いて職人が製陶をすれば国益に繋がるという旨を進言しています。
日本の陶土と技術を使用した陶磁器がその後海外で大流行した歴史をみると、先見の明があった源内ですが、残念ながら当時彼の進言は受け入れられず、この発想を活かすことが出来たのは数年後、故郷の志度(現在のさぬき市)でのことでした。
源内は長崎で学んだ新しい釉薬の扱い方や、江戸の友人で浮世絵師の鈴木春信の協力で仕上げた木型の使い方を志度の陶工たちに伝授し、源内焼を完成させます。出来上がった作品には釉薬による美しい彩りと、万国地図や風景画、表情豊かな人物画が描かれた多種多様な装飾が施され、日用品としてではなく主に幕府関係者や大名への贈答品として扱われました。
その後源内の甥である脇田舜民(堺屋源吾)、源内焼の一種「志度焼」を焼いた赤松松山などにも技術は受け継がれます。ちなみに、この時期に焼かれた源内焼で「民」「舜民」などの銘があるものは脇田舜民の制作したものであると言われています。
明治期には平賀源内の子孫によって源内焼は再興されましたが、江戸時代に焼かれたものと同じ品質を再現するのは難しく、ついに源内焼は衰退してしまいました。現存する源内焼は個人所有のものの他に、博物館などに納められているようです。