和骨董大辞典

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狩野芳崖(かのうほうがい)

 

江戸後期、文政の時期に生まれ、明治半ばにかけて活躍した画家です。

幕末から文明開化の過渡期に日本画家として作品制作を続け、のちに“近代日本画の父”とも称されました。

 

 

 

狩野芳崖の歴史

 

1828年に現在の山口県にあたる、長府藩で生まれました。父は家に代々続く狩野派の絵師をしており、同藩の御用絵師を務めています。それによって狩野芳崖は幼い頃から跡継ぎとなるため絵を学んでおり、10代の頃から号をもっていました。

19歳になると上京し、以前は父も門下にいた狩野家に入ると、江戸幕府の御用絵師・勝川院雅信のもとで指導を受けていきます。約4年後には師の助手もこなす弟子頭となり、間もなく画塾を修了。また、同じころには父との縁で知り合った、思想家、また学者でもある佐久間象山を慕うようになり、その考えや書風に至るまで強い影響を受けました。その後は故郷の長府藩に認められ御用絵師として仕えながら、しばらくは江戸と行き来していましたが、幕末の混乱期には故郷で活動しています。神社の絵馬の図の制作や、山口と九州を分ける海峡の測量図制作に携わるなどしたほか、自身の雅号を禅の教えからもじり、“芳崖”と決めたのもこの頃でした。しかし明治維新の終盤にはだんだんと生活が困窮していき、のちに“前衛的”とも表現されている自身の好みの作風は抑え、当時求められていた南画風の絵で、近隣の屋敷の襖絵などの制作、または日雇いのようなかたちで食器の下絵描きなどを請け負い生活をしていたと言われています。しかし、この状況を見かねた同門の仲間たちによって、51歳の時には薩摩の大名家に仕えられることとなり、3年の歳月をかけた大作の制作も行いました。

 

それまでの時代の風潮で、日本画の中でも伝統から飛びぬけた表現が受け入れられにくかった当時、狩野芳崖は困窮した生活の中でも日本画の新たな表現を求め続け、転機が訪れたのは50代半ばの頃でした。美術史家のアーネスト・フェノロサや、イギリスからやってきていた画家のチャールズ・ワーグマンと知り合い、日本画に西洋絵画の要素を取り入れた作品の制作に打ち込んでいきます。そして鮮やかな色遣いと西洋絵画に影響された画面構成で出来上がった作品は、外国人のフェノロサとワーグマンだけでなく、内閣総理大臣であった伊藤博文にも認められ、東京美術学校創立に繋がるきっかけの一つとなりました。

同校の教壇に立つことも約束され、作品制作の依頼も急増し、人気日本画家となった狩野芳崖でしたが、1888年、61歳で息を引き取っています。

 

 

 

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