1886年、日本で生まれましたが、高校卒業後にはアメリカへ向かい、以降は欧米で活躍しました。
田中保の歴史
田中保は埼玉県の金融家の家に生まれましたが、16歳の時には父が亡くなったことにより破産し、中学校を卒業すると一人でシアトルへと渡っています。皿洗いなどのアルバイトで生活を続ける中で、徐々に絵画に興味を持ち、画家を目指すようになりました。初めの頃は独学で絵を学んでいましたが、26歳の頃にはフォッコ・タダマというオランダ人画家の画塾で油彩を学び始めたと言われています。約3年後にはシアトルの図書館で個展を成功させるまでの実力をつけた田中保は、自分でも画塾を開校したほか、1915年のサンフランシスコ万博に、日本人でありながらアメリカ代表として認められ作品を出品しその名を広めました。
その後、31歳の時には再度個展を開催していますが、この時に出展した作品の題目が裸婦であったために、風紀的な理由で批判を受けることとなります。しかし田中はこれに抗議文で対抗し、その後も自身の作風を守っていきました。この事件が話題を呼んだこともあり、個展は1日に1000人もの来場者を呼ぶほど大成功を収め、同年にはアメリカ人女性との結婚も果たしました。30代半ばの頃にはフランスのパリにうつり、こちらでも画塾を営みながら自身の制作を続けていきます。個展と合わせてサロン・ドートンヌやサロン・デ・チュイルリーなどの展覧会に出品を繰り返し、1921年からは2年連続で作品がフランス政府に。また1924年にはフランスに滞在中だった日本の皇族に8点の作品が買い上げられました。そのほかいくつかの美術館からも作品の買取の申し出を受け、サロン・ドートンヌなどの会員にも抜擢されています。
やがて、田中が50代前半の頃には第二次世界大戦が勃発します。当時フランスに滞在中だった日本人の多くが帰国していきましたが、田中は現地で制作活動を続け、作品を発表し続けました。ドイツ軍に占領されたパリの中で、田中は55歳で命を落としますが、その作品たちは夫人の手によって大切に保管され、夫人の死後に再び世に広められています。
サロン・ドートンヌ
1903年に当時のフランスで活躍していた画家たちの参加をきっかけに始まった、美術展覧会です。当初はパリ1区にあったサマリテーヌ百貨店の援助の下で開催されており、伝統を重んじ保守的な考えのサロンに対抗して出来上がったともいわれています。初期の参加者にはアンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、ピエール・ボナールなどが挙げられ、以降もピカソやルノアールなど著名な近代画家たちが参加してきました。
展覧会は現在、シャンゼリゼ大通りにて、Salon d’automne=秋の展覧会 の名前の通り、秋に開催されています。