和骨董大辞典

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田崎広助(たさきひろすけ)

 

明治時代後半から昭和末期にかけて活躍した洋画家です。阿曽山や赤富士などを多く描いた画家として、その名が知られています。

 

 

田崎広助の歴史

 

 

 

福岡県に生まれた田崎広助は、18歳で中学校卒業後、県内の師範学校に進学し、父からの強い期待に応えるために教員免許取得を目指して勉学に励みます。その後20歳で小学校教師となりますが、この頃から田崎広助は独学で絵画を学ぶようになりました。そして画学生によって開かれた作品展に自身の作品を出品し、これが非常に高価な値段で売れたことをきっかけに、田崎広助の名が少しずつ広まっていきます。

 

そして約2年後、県立の高等女学校の図画教員となる推薦を受けますが、本人はこれを反故にし、上京しました。この件で父親に勘当された田崎でしたが、東京では小学校の図画教員となり、並行して安井曾太郎や坂本繁二郎らに師事して絵画の勉強に熱中していきます。その後一時は関東大震災の被害を避け京都に移りましたが、30代中ごろにはフランスへも渡っており、約2年間の留学期間中にサロン・ドートンヌでの入選も果たしています。

 

日本に帰ってからは二科展にて渡欧中の作品を陳列したほか、一水会や日本芸術院の会員、また日展の理事など要職を歴任しました。そのほか洋画家の東郷青児などと協力しながら、日本とブラジルをつなぐ日伯美術連盟の会長としても尽力し、76歳の時にブラジル政府よりコメンダドール・オフィシアール章、ならびにグラン・クルーズ章を受章しています。1975年には文化勲章を受章し、その後1984年、85歳で息を引き取りました。

 

 

 

高島野十郎(たかしまやじゅうろう)

 

田崎広助との接触はありませんでしたが、田崎と同じく1890年代生まれで、福岡県出身の洋画家です。中学卒業後に画家を志し東京美術学校への進学を希望しましたが、家がこれを許さず、高島野十郎は名古屋市内の高校に進学し、のちに東京帝大の農学部を首席で卒業しています。その後数年は同校にて助手として残りましたが、31歳の時には初めての個展を開催するほどの数の作品を制作していました。

3年後に2回目の個展を開いたのちは、一時兄弟からの助力も得てフランスへと留学しています。帰国後は実家の一部をアトリエとして制作活動に打ち込み、以降は各所で個展を開催しました。

 

戦後は上京し、各地を転々としていますが、80代に入ってすぐの頃に千葉県の知人の家の一部にアトリエを設け、ここを終の棲家としています。生涯にわたって各地を転々としながら作品の制作を行い、どこの美術団体にも所属しなかったため、その名が広まったのは高島野十郎の没後のこととなります。

1875年に息を引き取り、その5年後、福岡県で地元の画家たちの作品展が開催されたことをきっかけに注目が集まり、その後個展やテレビで紹介されたことでさらに名が広まりました。

 

 

 

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